先日、文学ワイン会「本の音 夜話」が開催され、小説家の井上荒野(いのうえ・あれの)さんにゲストでお越しいただきました!
九州を舞台にした『切羽へ』で直木賞を受賞。女性の内に秘めた感情や、男女間の張りつめた空気など、精緻な筆致で常に“人間”を描いてこられた井上荒野さん。『つやのよる』 『だれかの木琴』 『結婚』など、多くの作品で映像化もされています。
最新長編小説『あたしたち、海へ』に込めた想いをはじめ、ワインが大好きだという井上荒野さんに、ワインを好きになったエピソードや美味しそうな食の描写のヒミツ、小説観から現代の社会に対する想いまで、楽しく、かつ貴重なお話をワイン片手に盛りだくさんにお伺いしました。
ナビゲーターは、ライター・山内宏泰さんです。
目次
ピエモンテで感じた、「小説」と「ワイン」の共通点
「井上荒野さんと言えばワイン、と思ってしまいます…」と山内さん。それだけ井上荒野さんにはワインのイメージが重なります。
「ワインは大好きです。12~13年前、イタリア・ピエモンテに行ったことがきっかけです。アグリツーリズモの取材だったので、土地のものを食べ、ワイナリーを訪問し、それからワインがすごく美味しいなあと思うようになりました。」
そのとき訪れたワイナリーのオーナーがものすごくカッコよかったそうです。
「アル・パチーノみたいな、“ザ・イタリアのカッコいいおじさん”みたいな方が出てきて、もう言うことなすことカッコイイんですよ(笑)。『みんなの口に合う、売れるワインを造るのは簡単だ。だけどオレはオレが美味しいと思う、そして多くの人は美味しいと思わなくてもオレは絶対これしかない、というワインを造る!』と言うんですよ。『それ、私もです! 私は小説を書いていて、私もそう考えて書いています』っておじさんに言いまして。それからワインが好きになりました。」
ジャンルは異なれど同じ哲学。そんなワインの造り手に出会った、とてもユニークなエピソードです。
「私の小説はそんなに売れないんですよね、本当に(笑)いわゆるベストセラーみたいなのは書けないし。こう言うと負け惜しみみたいですが、こう書けば売れるかなとか、あるじゃないですか。例えば病気の犬を出すとか、病気の花嫁を出すとか(会場笑)。私はこれまでいろいろ書いてきましたが、私がひとつ自分に誇れる、威張れるものがあるとすれば、常に自分が書きたいものを書いてきた、ということ。売れたらいいなと思うし、売れたらもちろん嬉しいですが、“売ろう”と思って話を考えたことはないんです。」
人物を造形する「食」のシーン
ご著書『リストランテ アモーレ』では、数々の美味しそうなイタリア料理やワインが登場します。ランブルスコで乾杯するシーンもあることから、乾杯用にチョイスしたのが甘口のランブルスコ。今日の会のためにワイン色の御召し物を着てこられた井上荒野さんと、満席のお客様で乾杯! 改めて会がスタートしました。
井上さんの小説は美味しいものがたくさん出てくるだけでなく、読んでいるだけですごく美味しそうで思わずうっとりしてしまいます。美味しそうな食の描写のヒミツってあるんでしょうか…?
「私は食べることが好きで、食い意地が張ってるんです。私の育った家庭が、ご飯を食べることを、ちょっと異常なぐらい重要視していたので、割とそういう素地があって。自分で言うのもなんですけど、私はおだやかな性質でめったに怒らないんですが、たまに本当に10年に1回ぐらいすごく怒ることがあって。それが美味しくないものを食べたとき(会場笑)」
食に対する執着心みたいなものが反映している、と考えていいんでしょうか?
「小説って人物を造形しなくてはいけないんですよね。私は小説を書く際に、ストーリーよりも先にまず、この人はどういう人なのか、ということを考えます。筋を考えていると食事のシーンって必ず出てきますよね。私はそこをものすごく考えます。例えば、女の人が男に何かいやなことを言われた後にひとりでご飯を食べるとしたら何を食べるだろう、という風に考える。それが私にとって人物を造形する、ということなんです。方法は人によって違うと思いますが、これが自分にとって話の中に入っていく方法。例えばそういうときにコンビニでお弁当を買ってくる人であるとか、あるいはイライラしながらも自分でフルコース作ってしまう人だとか。それが一番考えやすいんです。」
小説を書くことだけは誠実でいたい
井上さんの文章からは、“気配”を感じることが多くあります。それは場の気配だったり、人の気配だったり、様々です。
「私が本当に書こうとしているのは、“気配”なのかもしれません。例えば今日ここに来る前に男の人に突然こっぴどくフラれた方が今ここに座っているとして、この空間が彼女に一体どんな風に映っているか、という考え方をするんです。それはもちろん一言では言えない。バカなこと話してるなとか思ってるかもしれないし、そう思っている一方で彼のことも考えていたりするし、ワインがだんだん回ってきて、全然関係ない壁のポスターに気をとられて見てるかもしれない。混沌とした頭の中のことを、“彼女は絶望していた”みたいな一言では言えない。そういうことをなるべく正確に書こうと思っています。多分それが気配。気配と言うと曖昧なものに思えるし、実際曖昧なものなんですが、その曖昧さを私はできる限り正確に書きたいと思っています。」
“彼女は絶望していた”だと、それは多分正確ではなく、もっと複雑なものがあるだろうということですね。
「私にとっては正確じゃない。例えば絶望しながらも、このワイン美味しいなと思っていたりとか、すごく悲しいのにちょっと変なこと考えているとか、ハッピーなのにどこか違和感があるとか。私はやっぱりそういうことを書きたい。私は本当に自分のために小説を書いているんです。自分が満足しないとイヤだと思っています。こう書いたら読者はわからないだろうとか、さっきの売れる話と一緒で、こう書かないと読者が離れていくかもとか、こう書いたらもっとみんながわかってくれて本屋大賞とか獲っちゃうかなとか(笑)、絶対それは思わない。」
小説が誰より好きという自覚がおありだったりするんでしょうか。
「父(戦後文学の旗手と言われた小説家の井上光晴氏)の唯一にして最大の私たちへの教育が、やっぱり人間は何かやらなきゃダメだ、ということでした。自分の魂を使って、生きていかなきゃいけないと。私は高校とか大嫌いだったんですが、そうすると父はちょっと破天荒な人だったので、高校に行かなくていいから、山に行って陶芸をやれとか言うんですよ(笑)フランスに行けとか。私は引っ込み思案な子どもだったから、そんなこと言われても別に陶芸をやりたくないし、フランス行って何していいかわからないし。父だってどこまで本気で言っていたかわからないんですが、どうしたらいいんだろうと思っていたところ、次第に私は書くことが好きで、書くことだったらちょっと自信があるし、できるんだなっていう風に思えてきて。そうして今、小説家になっています。本当に小説が好きで、読むことが好き。この状態が自分としてはとても僥倖というか。だから小説を書くということだけは、誠実でいようと思っています。」
新刊は、同調圧力が強い今の日本がテーマ
大人の微妙な心理を描くというイメージが強い井上さんですが、最新刊『あたしたち、海へ』では中学生が主人公。いじめというテーマに加えてメッセージ性もあり、新境地では、という驚きがありました。こうした設定やテーマを選ばれたのはなぜでしょうか。
「一時は“恋愛小説作家”みたいにカテゴライズされていたこともあったんですが、自分としてはずっと人間を書いてきた、人間の話を書こうと思ってきました。ずっと、人や人の間で起きることを描写してきたので、あまり小説にはメッセージというのを込めたくなかったんです。例えば不倫をすると地獄に落ちるとか(笑)、そういうことはあんまり言いたくなかった、そう思ってもないし(笑)
ですがこの小説に関しては違っていて、まず今、この日本中を覆っている同調圧力みたいな、人と同じにしなくちゃいけないとか、空気を読め、とかが私は若いときから大嫌いだということ。そして、いじめも事件が起きる度にすごく悲しかった。この話を書こうと思ったきっかけは、数年前に十代の女の子が二人で自殺したという事件を新聞で見たこと。彼女たちはいつ死ぬって決めたんだろう、何があったんだろう、死ぬと決めてから死ぬまでの日々をどう生きていったんだろう、と考えて。自分の中では絶対に彼女たちに死んでほしくなかったから、絶対最後は死なないことにしようと思った。だから書いている間中ずっと、現実を描写しようと思いながらも、やっぱり彼女たちが死なないですむ理由を一生懸命考えていた。そこに共感してくださる方がいるかもしれません。」
『あたしたち、海へ』は、いじめられる女子中学生ふたりの他、いじめる側、先生などの多視点で、それぞれがいろんなことを考え、それぞれが感情を揺り動かされながら暮らしている様が描かれています。
「いじめられる側だけではなく、いじめる側や先生、親の視点など、多視点で書くということは最初から決めていました。いじめられる子は絶対悪くないと思っていますが、勧善懲悪の話にはしたくなかった。いじめられている子に死ぬ必要なんかないんだよ、ってことは言いたかったんですが、だからと言っていじめる人を断罪する小説にはしたくなかった。いじめている子を擁護するわけではないけれど、でも、いじめてる子だって一律じゃないじゃない。いろんな子がいて、その子たちだって考えは日々変わっていく。そういうことを書きたかったんです。大きなテーマはいじめですが、でもやっぱりこの世界、今の日本、と考えてもらっていいと思います。」
自分が信じている世界だけが、この世界ではない
小説の中で、インスタグラムのシーンが印象的でした。
「なぜ死んではいけないのか――人間はいろんな瞬間でできています。いろんなものがあなたの中には詰まっていて、それはまだまだこれから増えていくし、今だって気がつかないだけで実はいろんな瞬間でできているんだよ、ということをいじめている側にも言いたいし、いじめられている子たちにもすごくつらいかもしれないけど、すてきな瞬間は探せば絶対にある、ということを伝えたい。インスタグラムは自分としては重要な意味を持たせたつもりです。逃げ道というかある種の象徴で、インスタグラムにアップしてもいいような瞬間で人はできている、探せばいっぱいある、っていうことを言いたかったんです。」
そうした瞬間があると知ることで死を回避できるかもしれない、そう考えるとインスタグラムもいいし、小説もいいですよね。
「小説はいいですよね。読んでいる間はそこに行けるし。みんなもっと小説を読んでほしいなと思います。自分が信じている世界だけがこの世界じゃない、ということが小説を読むとわかると思うんです。1人の人間が自分の人生、自分の行動範囲、交友関係だけで知ることができることなんて、本当に少しです。
これもいろんなところで言っているんですが、例えば誰かが不倫していたとか言ったらみんなすごく怒るし、私も不倫のことばっかり書いているってアマゾンのレビューで怒られたりするんですけど(会場笑)、100人いたら100とおりの不倫があるわけで、あなたの知ってる不倫だけが不倫じゃないよ、と。しないほうがいいし、よくないってわかっているのに、それでも止められないのはなぜだろう、って不思議じゃないですか。そういう心の動きが私は知りたいと思うから書くわけで。そこを不倫はダメとか、ひとからげにして自分から遠ざけてしまったら、不倫以外のこともわかんないんじゃないかと思うんですよね。」
最後にはお客様から新刊をはじめ、お名前の由来や好きな映画、ワインについてなど幅広い質問が寄せられ、すべてにひとつひとつ丁寧にお答えいただきました。
なかには「恋とはひとりでするものだと思いますか?」という印象的な質問も。それに対して井上荒野さんはすかさず、「いや、恋はひとりでするものですよ。だって恋は思い込みですから」と即答! その回答に会場のお客様がみな思わずうなる、という光景も見受けられました。
「死ぬまでに書いておきたいテーマは何ですか?」という質問には、「そのときどきで変わる。ただ、今、興味が少し社会的なことにシフトしています」とのことで、今度はセクハラをテーマにした連載を『小説トリッパー』(朝日新聞出版)で始められるそうです。「緊張していいものを書いていきたい」と井上さん。また、「3月に読売新聞に連載していた『よその島』というちょっとサスペンスチックな話が中央公論新社から出ます。ぜひ読んでください」とのことで、こちらも楽しみです。
井上荒野さんの思わず引き込まれてしまうお話に、楽しいひとときもあっという間。ところどころ笑いを誘われつつも、小説家としてのあまりにも真摯な言葉に思わずハッとさせられることも。お客様もワインを片手に熱心に耳を傾けておられ、なかにはメモを懸命にとられる姿もありました。
井上荒野さんの言葉が、まるで長い余韻を持つバローロのように心に響く、贅沢で濃密な一夜となりました。
イベント開催日:2020年2月19日
撮影 ©北沢美樹
『あたしたち、海へ』 (新潮社)
有夢と瑤子と海は幼馴染みの仲良し三人組。中学の合格祝いに買ってもらった自転車もお揃い、大好きなミュージシャンも同じリンド・リンディ。楽しいことはいつでも、三人一緒のはずだった。クラスであれが始まるまでは――。傷ついて、裏切って、追い出して、追い詰められて。少女たちの切実で繊細な魂にそっと寄り添う物語。