国税庁が昨年末に発表した2018年度(2018年4月~2019年3月)の酒類消費量によると、果実酒(=ワイン)の年間消費量は352,046キロリットル(1キロリットルは1,000リットル)。
これを単純に人口で割れば、日本人一人当たりの年間ワイン消費量は2.82リットルとなる。750ミリリットル瓶換算で3.76本だ。
「そんなに飲んでいるの?」と言う人もいれば、「たったそれっぽっち?」と思う人もいるだろう。
では今から50年前、日本人一人当たりの年間ワイン消費量はどれぐらいだったか。わかる人はいますか?
日本人の食生活を変えた「大阪万博」
今から50年前の1970年といえば、大阪万博の年。当時5歳の筆者はうろ覚えだが、愛読していた幼児向け雑誌に、新幹線に乗って大阪万博へ月の石を見に行くストーリーが掲載されていたことはしっかりと覚えている。
調べてみると、この頃の日本人のワイン飲酒量はほぼゼロに近い。なぜなら、当時の円ドルレートは固定相場制で1ドル=360円。輸入品は舶来品と呼ばれ、大変珍重された時代だった。
一方、日本ワインは今のようなレベルにはほど遠く、原酒に砂糖や香料を加えた甘味ブドウ酒が主流。そもそも当時の日本人の嗜好や食生活に、酸味や渋味の強い本格的なヨーロッパのワインは合わなかったのだ。
しかしながらこの大阪万博を機に、日本人の食生活が大きく変わる。
というのも、大阪万博ではフランスやイタリアなど美食で知られる国々が、自慢の食文化を広めるためレストランをオープン。トンカツやナポリタンといった街場の洋食とは一線を画す、真の西洋料理を日本国民に知らしめた。この時に来日したフランスの料理人のいく人かはその後も日本に定住。日本でフランス料理店を開いたシェフもいる。
先述の甘味ブドウ酒は1967年をピークに売れ行きが落ち始め、本格的なテーブルワインに追い抜かれるのは大阪万博から5年後の1975年。1973年にドルは変動相場制となって、1978年には1ドル=180円まで円高が進み、もはや輸入品=高級品ではない時代がやって来る。
ただし、テーブルワインといっても、まだ酸味や渋味の強いワインを庶民が受け入れたわけではない。その頃、もっぱら飲まれていたのはドイツのリープフラウミルヒやポルトガルのマテウス・ロゼ、それにフランスのロゼ・ダンジュといったやや甘口のワインだった。
ところで、1973年を第1次として、1978年に第2次、1981年に第3次とワインブームの変遷を綴る例をよく見るけれど、こうしたクロニクルは洋酒会社がマーケティング的に後付けしたもので、当時の多くの人にとってワインブームの実感はなかったはずだ。
本当の意味でワインブームを巻き起こしたのは、1980年代後半のボジョレー・ヌーヴォーである。
バブルとともに日本を席巻「ボジョレー・ヌーヴォー」
このブームのことはよく覚えている。1985年のプラザ合意で円高が進み、益々海外のワインが入りやすい素地は整った(1987年に一時、1ドル=120円まで上昇)。もっともこの年にはジエチレングリコール事件というワイン業界を揺るがす大事件が発生し、ワイン消費は大きく落ち込んでいる。
しかし、バブル前夜で日本経済は絶好調。ボジョレー・ヌーヴォーの「11月第3木曜日解禁」というテーマ性は、日本人の初物好きにうまくヒットし、好景気のお祭り気分も手伝って、庶民の関心をおおいに引きつけた。航空便で3000円以上という割高な価格にもかかわらず…。ちなみにトレンディドラマの元祖とされる「男女7人夏物語」が放送されたのは、1986年のことである。
1987年当時、日本で唯一のワイン専門誌編集部で学生アルバイトをしていた筆者は、解禁前日に成田空港まで行き、ボジョレー・ヌーヴォーが都内で真っ先に抜栓されるまでを取材せよとの下命を受けた。解禁日前に抜栓さえしなければ出荷が許されている今とは違い、その頃は成田の保税倉庫を出るのが解禁日当日の午前0時。真っ先にボジョレー・ヌーヴォーを開けるため、成田のホテルに陣取る人々まで現れたほどである。
しかし、この時期でも日本にワインが浸透したとは言い難い。赤白比率で言えば、まだ甘めの白が圧倒的優勢。ボジョレー・ヌーヴォーがブームになったのも、赤ワインとしては比較的渋味が少なく、軽やかで飲みやすかったからだろう。
そのボジョレー・ヌーヴォーに象徴されるワインブームも短命に終わる。1988年9月に昭和天皇の病状が悪化。日本は一斉に自粛ムードに覆われた。大規模なイベントやパーティは中止され、当然ながらボジョレー・ヌーヴォーの売れ行きも大きく落ち込む。前年の売れ行きから大量の発注をしていた酒販店や百貨店は在庫を抱え、クリスマス後のケーキのように投げ売りしても買い手はつかず、売り切るのに丸1年かかったという話さえ聞く。
その一方、翌1989年の酒税法改正は輸入ワインに大きな恩恵をもたらした。それまで、輸入ワインには割高な従価税が課せられていたが、ヨーロッパのワイン産出国から公正な取引を阻害する要因と訴えられ、従価税の撤廃が決定したのだ。1987年当時、国産ワインと輸入ワインの比率は国産63%に対して輸入が37%。ただし、この国産の大部分は海外から輸入されたバルクワインや濃縮果汁を元に生産されたワインである。酒税法改正後、さまざまな国、産地のワインが輸入されるようになり、輸入ワインのシェアが伸びていったのは言うまでもない。
1990年前後、日本人一人当たりのワイン消費量はようやく1リットル前後まで上昇したが、バブル崩壊とともに徐々に下降線を辿っていった。
「赤ワインブーム」が到来
日本全体からみれば、1995年は不幸な年として人々の記憶に刻まれているだろう。1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件が起き、折からの景気低迷も手伝って、世の中は暗い雰囲気に包まれていた。
しかし、その年の5月、東京の高輪プリンスホテルで開催された第8回世界最優秀ソムリエコンクールで田崎真也氏が優勝。それがテレビのニュースに流れ、新聞でも報道されると、田崎氏は一躍時代の寵児となった。
さらにタレントのみのもんたがテレビ番組で、フレンチパラドックスに基づく赤ワイン健康法を紹介。それまでワインに見向きもしなかった主婦までが赤ワインを飲み出した。いわゆる赤ワインブームである。
ここまで何度か触れているように、甘味ブドウ酒が衰退し、テーブルワインが伸びてきても、日本で飲まれるのはやや甘口の白ワインが主流だった。1978年に創刊した講談社「世界の名酒事典」(現在休刊)では、フランスワインの次に紹介されていたのはドイツワインで、これは当時の輸入量に準じている。
参考までに言うと、創刊号に掲載されたフランスワインの最高峰は1971年のロマネ・コンティだが、今となっては破格の5万円。じつはこれを上回る最高値の1本はドイツワインで、ドクター・ターニッシュのベルンカステラー・ドクトール・ベーレンアウスレーゼ1971年に7万円の値段がついていた。
赤ワインの渋味に慣れない人は、スーパーで買った赤ワインにシロップを加えて飲んでいたという話も聞くけれど、ともかく1997年を境に赤白の比率が大逆転。その後、白ワインが主流のドイツワインは凋落の一途を辿り、変わってバブル時代から続くイタメシブームでシェアを伸ばしたイタリアワインが、フランスに注ぐ2位の座を占めた。
しかしこの時代、日本のワイン業界に大旋風を巻き起こしたのはチリワインである。なぜこの時、チリワインが日本で注目されるようになったのか。
続きは次回へと回し、さらに2000年代の変遷について語りたいと思う。
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