今回は、ワインやグルメをテーマにした伝説の名作映画、『バベットの晩餐会』を取り上げます。
映画の分野で最も多いのが、ミステリーやサスペンス系と恋愛系ですが、グルメも映画の一分野として定着した感があります。代表的なグルメ映画として、アニメなのに料理が本物以上に美味そうな『レミーのおいしいレストラン』、シェフ・コート姿のジャクリーン・ビセットが端正な『シェフ殿、御用心』、ニューヨークのオシャレな繁盛店での人間模様を描く『ディナー・ラッシュ』があります。
グルメ映画では、厨房でシェフが食材と(時間も)格闘するシーンが何度も登場するため、とても賑やかで、シェフ同士が怒鳴り合ったり、フライパンでラム肉を焼きながらソースを作ったりと、動きの激しい場面が多いのですが、唯一の例外が今回の『バベットの晩餐会』です。
この映画には「静謐と清貧」がクリスタルガラス製の背骨のように作品全体を貫いています。超豪華な料理とシャンパーニュが登場するのに、詫びた茶室でお点前をいただく静けさがあります。
デンマークを知っていますか?
『バベットの晩餐会(1987年)』は、非常に珍しいデンマークの映画です。「デンマーク」の名前は知っていても、「デンマークは何が有名ですか?」と聞かれると、意外に返答に困りますね。
デンマークは、地図を見て分かるように、バルト海の入り口の「門番」の位置にあります。軍事大国として暴れまわった頃のロシアにとって、自国の強大な海軍の戦艦や空母を大西洋や太平洋に展開する場合に、「通せんぼ」をしているのが、デンマークのエーレスンド海峡と、トルコのボスポラス海峡です。
(パリの真ん中をセーヌ河が流れるように、イスタンブールの真ん中をボスポラス海峡が通っています。ボスポラス海峡は、「アジアとヨーロッパの境界線」であり、ロマンあふれる海峡ですね)
このせいか、アメリカ海軍はよくニュースに出てきますが、ロシア海軍があまり話題になりません。
デンマークは、数百年もロシアやドイツにいじめられてきて、とても我慢強い国です。このことも、『バベットの晩餐会』の背景になっています。
デンマークと聞いて、まず「スウェーデン、ノルウェーとともに、スカンジナビア三国」が思い浮かぶでしょう。また、オシャレなスピーカーで有名な高級オーディオの「バング&オルフセン」、おもちゃの「レゴ」、製薬会社の「ノボノルディスク」、陶磁器の「ロイヤル・コペンハーゲン」もデンマークの会社です。そう聞けば、「あぁ、そうか、そうだよね」と思うはずです。
ちなみに、ヨーロッパ大陸と地続きの国で、首都が島にあるのはデンマークだけです。首都のコペンハーゲンは、同国の東端のシェラン島の最東端にあり、日本なら、北海道の東にある根室の位置に東京があるようなイメージでしょう。そこからスウェーデンまで15kmしか離れておらず、海上の道路でつながっています。日本なら、川崎と木更津を結ぶ東京アクアラインの長さです。
アンデルセンとボーア
デンマークの出身者で国際的に、そして、圧倒的に有名な人物が、グリム童話で有名なハンス・クリスチャン・アンデルセンと、量子力学を立ち上げたニールス・ボーアの二人です。
アンデルセンと言えば、コペンハーゲンの海岸にある『人魚姫の像』が超有名ですね。人魚姫は、ロシアやドイツからいじめられたデンマーク同様、受難の連続です。1913年の設置以来、ほぼ10年周期でペンキを塗られたり、首を切られたりと散々です。でも、そのたびにデンマークの人達は辛抱強くキチンと修復して、今でもお姫様は海岸に座っています。
アンデルセンが文系の人の「甘く切ない思い出」なら、ニールス・ボーアは理系人間の「苦い記憶」でしょう。ボーアは、「量子力学入門」の授業で最初に登場しますが、「入門」と言いながら、量子力学へのドアはガチガチに閉まっていて、一歩も入れずに諦めた人が多数だと思います。超ミクロの世界である素粒子や量子の対極が、超マクロな銀河系や宇宙を相手にするアインシュタインの相対性理論です。
どちらも、「凡人には理解不能」であることは共通していますが、互いに相性がよくありません。量子力学では宇宙の法則を説明できず、相対性理論では素粒子の動作を証明できていないのです。「いやいや、1つの理論で全部まとめて説明できるはずだろ」と、両方を繋ぐのが「ヒモ理論」で、世界中の勇気ある物理学者が必死で見つけようとしています。
私にはヒモ理論は、ビール、ワイン、日本酒、焼酎、ブランデー、ウィスキー、ジンまで、あらゆるアルコール飲料を作れる「魔法のタンク」に見え、まだまだ先は長いのではと思います。
バベットの晩餐会のあらすじ
コペンハーゲンにある人魚姫の像は、有名になりすぎました。期待が大きすぎて、実際に見た観光客は「エッ、こんなに小さいの?」と落胆するそうです。「世界3大ガッカリ観光名所」として、「シンガポールのマーライオン、ブリュッセルの小便小僧、コペンハーゲンの人魚姫」となってしまいました。
今回の『バベットの晩餐会』は、その正反対で、地味だけれどもマニアックで、「ワイン愛好家はこれを見ずには死ねない」「何回見ても、見るたびに感動する」映画です。
ワインと食事がこれほど重要な役で登場する映画は、『007ロシアより愛を込めて(テタンジェのコント・ド・シャンパーニュ)』と『ナイル殺人事件(ペトリュス)』ぐらいでしょうか。
『バベットの晩餐会』の時代設定は1885年です。日本では、北原白秋が生まれ、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任した大昔ですね。デンマークでは、量子力学のニールス・ボーアが生まれました。舞台となったのが、雲が重く垂れこめて陽が差さず、強風が吹くデンマークの田舎の漁村です。
登場人物ですが、小さい劇団の舞台劇のように1ダースちょいの役者しか出てきません。
まずは、厳格な牧師だった亡父の教えを忠実に守り、それ故に未婚の老姉妹。亡き牧師の信者である村人たち。飛び入りで訪問したスウェーデン軍の将軍、そして、パリから流れて老姉妹の召使いとしてタダ働きする謎の女、バベットです(実は、元花形シェフであることがだんだん分かっていきます)。
貧しい寒村に似合う食べ物は、固いパンと、塩分タップリの干し鱈と、水でしょう。何の楽しみもなく、若者はおらず、暗くて寒い村ですが、ある日バベットが村人を招き、超豪華な食事を振る舞うのです。亡くなった牧師の生誕100年を記念した晩餐会との設定です。
客は老姉妹、村人、スウェーデンの将軍の計12人。12人の合計年齢は1,000歳に近いでしょう。
飛び入り参加した将軍は美食家で、50年前に老姉妹の妹にプロポーズしましたが「牧師である父に仕えるため」と受けてもらえなかった過去があります(これが、この映画の伏線になっています)。
将軍は軍服姿で、金色の肩章と赤い裏地のジャケットに勲章を着用した正装で、ズボンは鮮やかな空色。村人は全員、黒い服装なので、白黒映画と思う人もたくさんいるでしょうが、将軍の金、赤、青でカラー映画であることが分かります。
晩餐会のメニュー
バベットが用意した晩餐会のメニューは、寒村ではあり得ない豪華なものです。「海亀のスープ」から始まり、「キャビアのドミドフ風ブリニ添え」「鶉のフォワグラ詰めパイ包み」「チーズ盛合わせ」「フルーツ盛り合わせ(パイナップル、マンゴー、葡萄、イチジクなと)」と続きます。
これに合わせるワインは、食前酒の「アモンティリヤード」から「ヴーヴ・グリコ1860年」「クロ・ヴージョ1845年」へ移り、食後酒の「フィーヌ・シャンパーニュ」へ至る豪華版です。
1人当たりいくらかかっているのか、映画を見たいろいろな人が計算していますが、40万円とのことです。貧乏な寒村で、なぜ、そんな贅沢なことができたのかは、是非、映画でお確かめください。
エリゼー宮でのフランス大統領主催の晩餐会でも、こんなに贅沢な食事とワインは出ないでしょう。
村人は、料理の食べ方やワインの飲み方が分からず、将軍の真似をします。日本昔話や落語の『芋ころがし』のようですね。
バベットの晩餐会のメニューを今のフレンチレストラン風に書くと、以下のようになります。
アペリティフを一口飲んだ将軍が言います。「これは驚いた。アモンティリヤードだ。しかも、これほどの物は初めてだ」。海亀のスープとの相性が絶妙だったようで、将軍は感激します。
次の料理、「キャビアのドミドフ風ブリニ添え」について。「ブリニ」とは、蕎麦粉を焼いたロシア風の小さいパンケーキです。そこにサワー・クリームとキャビアを乗せた料理で、手で摘まんで食べます。料理名は、ロシアの食通、アナトール・ドミドフが好んだことによるそうです。
豪華な「キャビアのドミドフ風ブリニ添え」に合わせたシャンパーニュがヴーヴ・クリコ1860年です。鮮やかなオレンジ色は、黒と灰色の寒村の室内で物凄く目立ちます。美食家の将軍がシャンパーニュを一口飲んで、「まさしくヴーヴ・クリコの1860年物ですぞ」と溜息をつくのです。
シャンパーニュファンには、クリコの古風なラベルがかえって新鮮に映ることでしょう。同社のトレードマークは鮮やかな黄色ですが、スクリーンを見ると、「昔から、ラベルが黄色だったんだぁ」とまつ毛の先まで熱くなります。
次の「鶉のフォアグラ詰めパイ包み石棺風 黒トリュフのソース」を食べたあたりから、将軍は若いころ、パリの高級レストラン「カフェ・アングレ」で同じ料理を食べたことを思い出し「驚いたことに、料理長は女性だった」と懐かしむのです。
そして「その料理長は、食事を恋愛に変えることのできる女性だ。情事と化した食事では、肉体的要求と精神的要求の区別がつかない」と言い始め、禁欲的な村人が驚きます。将軍は、合わせたクロ・ヴージョ1845年を何杯もお代わりします。(ラベルから生産者は読めませんが、スクリーンを見る限り、4本ありました。)
食事はフルーツに移り、村人はイチジクを手づかみで食べましたが、将軍はナイフとフォークでキレイに4分割して、美しく食べます。バナナのような皮付きのフルーツをフォークとナイフで食べるのはかなり大変ですね。
古風な晩餐会
ネタばらしになりますので、なぜ、バベットが寒村で場違いに贅沢な晩餐を供したかは書けませんが、映画のクライマックスは最後の20分の晩餐会のシーンです。是非、この映画をご覧ください。
この場面は、135年前の豪華な晩餐会を忠実に復元したもので、当時の食事風景が窺え、非常に興味深いと思います。
まず、食事の量が違いますね。今のフレンチは、大きな皿の真ん中に「猫のおやつ」ぐらいの小さくて上品な料理を置きますが、この晩餐会ではキャビアもテンコ盛りです。お腹がペコペコの時に思いっ切り食べるのが晩餐であり、「千里を駆けた三銃士が宿に着いてタップリと食べるもの」のような豪快さがあります。
食器や調理器具も昔風ですね。ワイングラスは、フルーツパフェの器みたいにガラスが厚く、口が上に開いています。エリゼー宮の晩餐会でのワイングラスはバカラのクリスタルグラスで、バベットの晩餐会のグラスに似ています。
ちなみに、レストランで普通に使っているチューリップ型グラス、いわゆるブルゴーニュ型が初めてできたのは1958年で、リーデルが作りました。
食事の出し方も、今のフレンチレストランとは大きく違います。現代のレストランでは、料理が換わるたびに各人に新しい皿で料理を出しますが、バベットの晩餐会では、最初から各自の前に皿が何枚も重ねてあります。昔の家庭料理ではドカンと真ん中に鍋を置き、そこから各自が大きなスプーンですくっていたのですね。
3回見ましょう
この映画は、森の泉に水滴が一粒落ちるように静かで清く、肉欲とは対極の世界に見えますが、底には熱い激情が流れています。
武士の奥方みたいに端正で禁欲的なバベットですが、パリで花形料理人として有名だった頃、「食事を情事に変えるシェフ」と呼ばれていたとのエピソードを将軍が明かします。これも、ストーリーの伏線になっています。「アルゼンチン・タンゴは、タキシードを着た情事」と言うのに似ていますね。
晩餐会の後で将軍は、未婚の老姉妹の妹の手を取り「いつ、どこにいてもあなたと一緒でした。それはご存知ですよね」「はい存じております」「これからも毎日、あなたと共に生きる。それもご存知ですよね。夜ごとあなたと食事をする。肉体がどんなに離れていようと構わない。心は一緒です」と言い残し、馬車で去っていくのです。そんな「清らかな情事」にはヴーヴ・クリコがよく似合います。
この映画は是非、3回見てください。最初は「グルメ映画」としてヴーヴ・クリコを飲みながら。2回目は「切ない恋愛映画」としてクロ・ヴージョを飲みながら。最後は「情熱的なラブストーリー」としてアモンティリヤードを飲みながら。
この映画は何回見ても感動しますし、毎回、新しい発見があります。ワインも同じですね。