ソムリエコンクールの変遷 前編

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公開日 : 2021.12.16
更新日 : 2023.7.12
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ソムリエコンクールの変遷 前編

日本で「ソムリエ」という職業が知れわたり、本来の意味からかけ離れた野菜ソムリエや温泉ソムリエまで生まれるようになったのは、今から26年前の1995年、東京で開催された世界最優秀ソムリエコンクールにおける、田崎真也氏の優勝がきっかけである。


今回と次回の2回に分けて、このソムリエコンクールについて振り返ってみたい。

後編はこちら

目次

ソムリエコンクールのはじまり

ASI(国際ソムリエ協会)主催の世界最優秀ソムリエコンクールは、1995年の東京大会が第8回目だった。今でこそ国内選抜のうえ、ヨーロッパ、アメリカ、アジア・オセアニアの3大陸代表選抜まで体系が整っているASIのコンクールだが、当時はまだそのような仕組みができておらず、今でいうJSA(日本ソムリエ協会)主催の全日本最優秀ソムリエコンクールさえもなかった。


しかし、ソムリエコンクールがまったく存在しなかったわけではなく、SOPEXA(当時のフランス食品振興会)やICE(イタリア貿易振興会)がそれぞれ自国のワインのプロモーションを目的に、それぞれフランスワイン&スピリッツ全国ソムリエ技術賞コンクール、イタリアワインソムリエ技能コンテストを開催。田崎さんは1983年の第3回フランスワイン&スピリッツ全国ソムリエ技術賞コンクールで優勝している。


その頃、つまり90年代半ばまで国内で行われていたソムリエコンクールは形式がだいたい決まっており、筆記試験、料理とワインの組み合わせ、デカンティングの実技、ブラインドテイスティングという内容だった。また、出場選手もホテルのソムリエがほとんどで、街場のレストランで働くソムリエは珍しかった。


というのはそもそも今ほどワインが普及していないこの時代、ワイン専門の給仕であるソムリエを抱えられるのはホテルくらいしかなかったのである。

ターニングポイントとなった1995年

さて、ここで1995年のコンクールがどのような内容だったのか見てみよう。筆者はこの時、ワイン専門誌の記者として選手団一向に随行し、大会前日のディナーの後、飲み足りないというフランス代表団と一緒に六本木のサルサ・バーまで付き合った思い出がある。


1日目の準決勝(各国の代表選が予選で、世界大会は準決勝から始まる)は全30問の筆記試験から始まり、赤白2種類のワインのブラインドテイスティング。まぐろの握り寿司を食べ、先ほどの赤白ワインのどちらに合うか記述。1本の赤ワインを仮想客10名へ均等サービスという内容。


筆記試験は「1ヘクタールは何エーカーか?」「ワインのラベルにある"Colheita"は何を表す言葉か。5行以内で記せ」など、今から思うと基礎的な知識を問う課題が多い。とはいえ、インターネットも普及しておらず、ワインに関する情報源が限られていたこの時代、「Vesperperterminenはどこにあるか、ここではどんなワインが造られるか?」との問いに答えられるのはスイス代表くらいのものだろう。


23カ国の代表が参加したこの大会で、2日目の決勝に残ったのは5人。フランス代表オリヴィエ・プーシエ、カナダ代表のフランソワ・シャルティエ、スイス代表のエリック・デュレ、ドイツ代表のマルクス・デル・モネゴ、そして日本代表の田崎真也の各氏である。フランス、カナダ、スイスという、いずれもフランス語を公用語とする国が残るあたり、当時いかにフランス優位だったかがわかろうというものだ。


決勝の課題は3つだった。5種類のワイン&スピリッツのブラインドテイスティング、料理に合わせたワインの提案、赤ワインのデカンティングである。


準決勝の筆記試験はフランス語、イタリア語、ドイツ語、日本語、スウェーデン語、ポルトガル語の7カ国語に翻訳。ブラインドテイスティングは通訳を付けることが許されたが、5人ともフランス語で臨んだ。サービス実技は英語またはフランス語で、母国語を選ぶことはできない。これでは圧倒的に欧米の選手に優位だから、現在は全課題を通じて、英語、フランス語、スペイン語の選択制で、母国語の使用は不可となっている。


この時のブラインドテイスティングでカナダ代表はワインに合わせる料理について言及しなかった。前大会で優勝したフランス代表のフィリップ・フォールブラック氏が料理をコメントしなかったので、それにならったものという。今ではワインの官能表現に続き、提供方法、おすすめ料理、そしてワインの特定が欠かせない要素となっている。


サービス実技では、ステージに立つ30分前に料理のメニューと国別に1000アイテム以上が羅列されたワインリストが渡された。アミューズからデザートまで7品のコースに合わせてワインを選ぶのだが、最初に仮想客が「4本のワインを選んでくれ」と言い、選手が4本を選ぶと、次に「4本は多すぎるので2本で」と返し、2本を選ぶと今度は「考えが変わった。スパークリングワインで食事を通したい」とつっこみが入る。


このような切り返しは今でもよく見られる実技審査の定番だが、当時、会場で見ていた筆者は、「なんていじわるな」と選手を気の毒に思ったものである。

さて、この1995年の東京大会は世界ソムリエコンクールのターニングポイントとなった。過去7回の優勝者は2人のイタリア代表を除き5人がフランス代表で、田崎氏の優勝までフランス代表の優勝が4人続いた。いわば、フランス人のためのコンクールだったのだ。


ところがその後、本大会で2位に甘んじたオリヴィエ・プーシエ氏が第10回大会で雪辱を果たして以来、フランス代表の優勝はない。


ちょうどこの頃からフランスやイタリアなど伝統的なワイン生産国だけでなく、アメリカ、チリ、アルゼンチン、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなど新大陸のワインが台頭し、同時に、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、オーストリア、スイスなど、旧世界でも品質向上が大きく進んだ。ワインのトレンド発信地はもはやパリではなくロンドンやニューヨークに移り、むしろ自国以外のワインに触れる機会の少ないフランス代表に不利な状況が生まれていたと言える。


そして田崎氏の優勝を機に、JSAが1997年から全日本最優秀ソムリエコンクールを開催。その優勝者から日本代表を選考し、世界最優秀ソムリエコンクールに送り込むシステムが出来上がった。


一方、審査の方は知識と技術の底上げにより、筆記試験、料理とワインの組み合わせ、デカンティング、ブラインドテイスティングという従来どおりの課題では差が付かなくなっていた。そこでグラスに一脚だけ口紅を付けておいたり、コルク臭の原因とされるTCAをわざとワインに仕込んでおくような、いわゆる「トラップ」を頻繁に見るようになった。


そもそも口紅のついたグラスがダイニングに用意されているほうが不自然なのだが、今でも、客席に並べる前にグラスを照明にかざして汚れをチェックする“仕草”をとる選手は少なくない。

ベテラン強し

時計の針を一気に15年進めよう。2010年の世界最優秀ソムリエコンクール・チリ大会だ。


この大会に日本代表として乗り込んだのは、谷宣英氏と森覚氏のトゥール・ダルジャン・コンビ。筆者もこの大会を取材するため、東京からパリ経由でサンチャゴまで30時間をかけて飛んだ。


この時のトラップは準決勝の実技審査に仕込まれていた。「シャンパーニュを7人にサービスしなさい。制限時間は7分」という課題。世界大会の代表に選ばれたソムリエなら、なんの苦もなくこなせる課題である。


しかし、キャップシールを剥がした瞬間、選手の目に飛び込んできたのはワイヤー止めのミュズレではなく、コルクをガチッと止める巨大なホッチキス。アグラフと言う。


準決勝進出選手の名前が呼ばれる前日のディナーの席で、大会の冠スポンサーであるモエ・エ・シャンドンの最高醸造責任者、ブノワ・ゴエズ氏が「明日は面白いものが見られるよ」と言っていたが、その正体がアグラフだったのだ。


何人もの選手がこのトラップに手こずった。ルーマニア代表の女性選手は初めて見る物体におろおろし、「これは何かの間違いです。ほかのボトルをご用意します」と言って、ワゴンの方に目をやったが代わりのボトルなどない。手でこじ開けようにもか細い彼女の腕力ではいかんともしがたく時間切れ。審査室を出るなり彼女は廊下で大粒の涙を流した。


アグラフ止めのモエ・エ・シャンドンは、大会の審査委員会がメゾンに頼み、特別に作ってもらったボトルだと言う。


2010年のチリ大会で優勝したのは、英国代表のジェラール・バッセ選手。フランス人だがリヨンの学校でサービスを学んだ後に渡英し、現地のホテルでソムリエになってからはコンクールに英国代表として出場を続けた。


出場選手中最年長の53歳。彼が初めて世界最優秀ソムリエに出場したのは1989年のパリ大会で、その時は決勝にも残れなかった。1992年のリオ・デ・ジャネイロ大会で2位入賞。田崎氏が優勝した1995年の東京大会は、仕事の都合で挑戦を見送った。8年ぶりに出場した2000年のモントリオール大会で惨敗。2004年のアテネ大会に出場し、またしても2位。2007年のロードス島大会でも2位だった。


この2010年の大会には背水の陣で臨み、家族や周囲に「これが最後の挑戦」と話していたという。


決勝に残ったのはスイス代表のパオロ・バッソ、フランス代表のダヴィッド・ビロー、それにジェラール・バッセの3選手。この時のバッセ選手のパフォーマンスを筆者は忘れることはできない。


世界一ソムリエのあるべき姿を見た気がした。とくに料理とワインの組み合わせの審査は圧巻だった。


あらかじめ料理が決められており、それに合わせてワインを選ぶのがこれまでのスタイルだが、この時は客が持ち込んだワイン(日本酒も含まれている)に合わせて料理のメニューを組み立てるというもの。しかも異なる国のスペシャリテという条件が付いていた。


バッセ選手は課題を言い渡されるや、軽い足取りでテーブルに近づき、仮想客に挨拶。大会スポンサーであるアクアパンナとサン・ペレグリーノの水をさりげなくすすめることから始めた。


続いて、ベジタリアンはいないか、カロリー制限している人はいないかと確認。「シェフのジョンと相談してきます」と言って、テーブルから少し離れ、ワインリストをじっと睨んでメニューを考え始めた。


ドン ペリニヨン1990にアルカッションの生牡蠣、月桂冠純米大吟醸にサーモンやマグロの刺身と寿司、ピーター・レーマンのエデン・ヴァレー・リースリング2009にバラムンディのバターソース、ドメーヌ・ドルーアン・オレゴンのピノ・ノワール2003にアメリカ赤鹿のカルパッチョ、サン・ペドロ・デ・ヤコチュアのマルベック2000にアルゼンチン牛のリブアイステーキ、ヴァン・ド・コンスタンスにトロピカルフルーツのスフレ。ワインの生産国に合わせよとは誰も言っていないが、料理の国籍に変化をつける意味もあったのだろう。見事としか言うほかない。


その語り口も軽妙で、審査を見守る観戦者全員が引き込まれた。あたかも自分がその席に着き、料理名とその説明をわくわくしながら聞いている気分に浸った。


さらに残った時間を利用して、食後のコーヒーや紅茶、ディジェスティフまで提案。それでもまだ時間が余り、「後ほどワインセラーをご案内しましょう」とまで述べた。まさにベテランの貫禄だ。


帰国後、田崎氏に取材したところ、「ふだん、いかに優れたサービスをしているかがコンクールの結果に出る」と総括された。ベテラン強し。


2013年の東京大会でも、世界大会に4回出場し、前回チリで2位入賞した47歳のパオロ・バッソ氏が優勝。世界一になるには場数を踏むことが重要なのかと考えさせられた。しかし……。

後編に続く

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