『星の王子さま』のワイン「シャトー・マレスコ・サン・テグジュペリ」物語

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公開日 : 2022.6.27
更新日 : 2023.7.12
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『星の王子さま』のワイン「シャトー・マレスコ・サン・テグジュペリ」物語

ボルドー地方、メドックの地区のマルゴー村にある3級の格付けシャトーの名門がマレスコ・サン・テグジュペリ。同シャトーの創立者の曾孫が、『星の王子さま』の作者にして偵察機のパイロットだったアントワーヌ・ド・サン・テグジュペリです。


そのため世界の各国で開催する同シャトーのプロモーションでは、当該国の『星の王子さま』の翻訳本を必ず配ります。


6月29日はサン・テグジュペリの誕生日で、「星の王子さまの日」でもあります。


今回は、作家サン・テグジュペリを中心に、いろいろなエピソードを紹介します。

目次

シャトーの歴史

1697年、ルイ14世統治下の法務長官でありボルドー議会の公証人だったシモン・マレスコは、ルイズ・エスクセからシャトーを購入し、名前をシャトー・マレスコとしました。その130年後の1827年、マルゴー村のブドウ畑を所有していたジャン・バプティスト・サン・テグジュぺリ伯爵が、シャトー・マレスコを購入し、名前をシャトー・マレスコ・サン・テグジュぺリとします。


このジャン・バプティスト・サン・テグジュぺリ伯爵が、『星の王子さま』や『夜間飛行』で有名なフランスの国民的作家であり、飛行士でもあったアントワーヌ・ド・サン・テグジュペリの曽祖父に当たります。


シャトー・マレスコ・サン・テグジュぺリは、1855年のメドックの格付けでは品質も人気も高く、3級となりましたが、その後、フィロキセラ禍や二つの世界大戦に対策するための十分な経済的、人的な余裕がなく、見る影もなく没落してしまいました。


そんな窮地を救ったのがスイス系の富豪、ズジェール家で、以降、3世代に渡って名門復活のため懸命の努力を重ねた結果、ワイン界の帝王ロバート・パーカーも3級に相応しいワインと絶賛しました。


現在、畑の管理からワイン造りまで3代目のジャン・ルック・ズジェールが担当しています。


マレスコ・サン・テグジュペリでは、いち早く自然派農法を取り入れ除草剤は使いません。収穫も手作業で、自然酵母を使いゆっくりとアルコール発酵させています。樽(新樽100%)へ移してからブルゴーニュのようにバトナージュを3回実施し、底に沈殿した澱とワインを接触させ、澱の旨味成分を引き出しています。


同シャトーの醸造には、あのミシェル・ローランがコンサルタントとして参画しています。


セカンドラベルがラ・ダーム・ド・マレスコで、お値打ち価格で味わえます。

作家、サン・テグジュペリについて

リヨンで生まれる

ボルドーにある61の格付けシャトーの中で、「最も読みにくい名前選手権」があるとしたら、チャンピオンは、「Malescot St. Exupéry」だと思います。これをさらっと「マレスコ・サン・テグジュペリ」と読めれば、尊敬してもらえますし、関係の深い作家、サン・テグジュペリや『星の王子さま』『夜間飛行』の由来話を披露すると「ワインと文化の神」扱いされるはずです。


アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリ(1900年6月29日-1944年7月31日)は、作家だけでなくパイロットとしても有名です。貴族を表す「ド」が付いていますが、実際に爵位はなく、領地もなく、いわゆる没落貴族です。


郵便輸送の黎明期のパイロットとして、ヨーロッパ、南米の航路を開拓しました。名前が長いので、世界中の愛読者からは、Saint-Exupéryを略してSaint-Ex(サンテクス)と呼ばれています。


出生地は、ボージョレの南にある大都市、リヨン。フランス料理界の巨匠ポール・ボキューズやアラン・シャペルも輩出したリヨンは「食通の街」ですが、不思議なことにミシュランの三ツ星レストランが1軒もありません。


なお、サン・テグジュペリに敬意を表し、リヨンの飛行場はリヨン・サン・テグジュペリ空港(LYS)の名前になりました。

2回も墜落……

サン・テグジュペリは、フランス陸軍の飛行隊で操縦士になったあと、民間の航空会社、アエロポスタルに就職します。これは、今のエールフランスの前身で、人を運ぶ前段階として郵便物を運んでいました。その時の体験をもとに、『夜間飛行』などを発表し有名になります。


1935年、フランス・ベトナム間の最短時間飛行記録に挑戦した際、サハラ砂漠へ不時着してしまいます。生存が絶望視された中、3日間歩いてカイロへたどり着きました。この時の体験が『星の王子さま』になっています。


第二次世界大戦が始まると偵察機の操縦士となりましたが、1940年にアメリカへ亡命。その後、北アフリカ戦線へ志願して、再び偵察機のパイロットになります。この時、着陸に失敗する大事故を起こし飛行禁止処分を受けます。


人生で2回も墜落したのは、シャトー・マルゴーの愛好家だったアーネスト・ヘミングウェイとサン・テグジュペリぐらいでしょう。マルゴー村は、飛行機と相性が悪いのかもしれません。


墜落事故から回復したサン・テグジュペリはその後、コルシカ島の部隊に所属し、イタリアのボローニャ飛行場からアメリカ製の偵察機、ロッキード F-5A ライトニングに乗って飛び立ちます。ジュラ、サヴォア地方の写真偵察に向かったのですが、消息不明となって未帰還。1944年7月31日のことです。


この時、サン・テグジュペリが乗機したロッキード F-5A ライトニングは、戦闘機を二つ横に連結した特異な形をしていて、飛行機マニアの間で有名です。プラモデルには、必ずサン・テグジュペリが乗機した「自由フランス空軍」のマークが入っているそうです。

捜索

エドモンド・ヒラリーより先にエベレスト初登はんしていたかもしれないイギリスの登山家、ジョージ・マロリーは、3度目のエベレスト挑戦で行方不明になり、75年も遭難場所が謎のままでした。同様に、サン・テグジュペリの墜落場所も不明で、昔はマロリーとサン・テグジュペリの捜索が大きな話題になっていました。


1998年9月7日、マルセイユ沖でトロール船が、サン・テグジュペリと妻の名前を刻んだ銀のブレスレットを発見しました。以降、付近を潜水して捜索し、沈んでいる機体を発見。機体の製造番号からサン・テグジュペリの乗機と判明します。


2000年5月26日のことで、世界の大ニュースになりました。覚えている人も多いと思います。


大戦当時、敵国のドイツ軍にもサン・テグジュペリの愛読者は多く、サン・テグジュペリの部隊と戦いたがらない人も多かったようです。同機を撃墜したドイツ人の戦闘機パイロットもサン・テグジュペリの愛読者で、「サン・テグジュペリの機と知っていたら、撃たなかったのに……」と述べています。

『星の王子さま』のあらすじ

サン・テグジュペリといえば『星の王子さま』。小学校の時に教科書にも載っていました。


1943年にニューヨークで初出版。全27章、130ページほどの短編で、挿絵がたくさん入っているので半日で読めてしいます(47ある挿絵は、全てサン・テグジュペリが描きました)。


日本では、フランス文学作品として圧倒的に売れているのがこの本で、「子供の心を忘れた大人への童話」として有名ですね。以降、『星の王子さま』のあらすじを載せます。

操縦士の「僕」は、ある日、サハラ砂漠に不時着します。これは、サン・テグジュペリの体験そのままです。水は1週間分しかありません。


翌日、「僕」は誰もいないはずの砂漠で少年と出会います。少年と話しているうちに、ある惑星からやってきた王子であることが分かりました。


飛行機を修理しながら王子の話を聞くと、王子の星は家ほどの小さい惑星とのこと。その星に咲いていたバラの花とケンカをして、他の星を見に行くことにしたそうです。


最初に行った星には、物凄く威張っている「王様」、2番目の星には、自分を褒める言葉しか聞こえない「自惚れ男」、3番目の星には、酒を飲むのが恥ずかしいと思っていて、その恥ずかしさを忘れるためにいつも酒を飲んでいる「大酒飲み」、4番目の星には、宇宙の星をすべて所有していると言い張り、星の数をカウントしている「ビジネスマン」、5番目の星には、1分に1回自転する星で、30秒ごとにガス灯の点火と消火をする忙しい「点燈夫」、6番目の星には、机に座ったまま研究をしている地理学者、そして、7番目が地球でした。


地球では、飛行機を修理している「僕」、ヘビ、キツネに出会い、「大切な物は目には見えない」とか「たくさんバラはあっても、自分が1番いいと思うバラが最も美しい」とか「他人と心を通わせることの素晴らしさ」を学びます。


王子は最後にヘビに噛まれ、故郷の惑星に還ります。「夜空が美しいのは、どこかに王子がバラと暮らしているから」と「僕」は考えるそうです。


2005年1月22日に文章と挿絵の両方の著作権と翻訳権が消失し、全人類の共有文化財産になりました。日本では、今では20以上の翻訳書が出ています。


ウェブサイトで「星の王子さま 原文」で検索すると、挿絵と原文が出てきます。自分の訳で『星の王子さま』を作ってみてはいかがでしょうか?

『夜間飛行』のあらすじ

サン・テグジュペリのもう一つの代表作が『夜間飛行』です。150ページほどの短編で、1日で読めてしまいます。


ラフィットとシャンベルタンとボランジェを飲んだことがあればフランスワイン通を自称できるとしたら、『夜間飛行』と、アルベール・カミュの『異邦人』と、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読んでおけば(プルーストは超巨編なので、『夜間飛行』と『異邦人』の2冊を読んでおけば)、フランス文学通を自称してもイイと思います。


この短編は、サン・テグジュペリ自身が南アメリカで郵便運搬の夜間飛行のパイロットをしていた経験がもとになっています。


現代の私たちは『夜間飛行』から、ロマンチックなイメージを持ちますが、サン・テグジュペリの頃は、暗黒の夜空と、夜の大西洋とアンデス山脈の境界が見えない漆黒の闇を時速200キロで飛ぶ恐怖の世界でした。


郵便を運ぶ手段として飛行機は、昼間は、機関車、自動車、船に速度で勝てるのですが、夜に飛ばないと、距離を縮められてしまいます。郵便飛行の黎明期、アルゼンチン初の航空郵便運送会社の支配人、リヴィエールは、夜間、どんな天候でもどんな場所へでも定時に郵便物を届けることをパイロットに徹底しました。


ある夜、操縦士のファビアンが、南極に近いアルゼンチンの最南端、パタゴニアから、首都、ブエノスアイレスへ出発します。途中で雷雨に巻き込まれ、現在位置が分かりません。ブエノスアイレスの本社では、支配人のリヴィエールが連絡を取るため通信機と格闘しています。やがて、ひっそりと燃料の限界時間が過ぎます。


夜間の暴風雨と戦ったファビアンの勇気を讃えながら、悲しみにまみれたリヴィエールは、「飛行士を犠牲にしてまで夜間飛行を続ける意義はあるのか?」と自問するのです。『星の王子さま』とは正反対の硬派の内容ですね。


『夜間飛行』の訳書として、堀口大學(1956年)、 山崎庸一郎(2001年)、二木麻里(2010年)の3種類があります。

50フラン札になった『星の王子さま』

ユーロになる前の通貨がフランで、50フラン札には、サン・テグジュペリと『星の王子さま』が満載です。


まずは表面。右側に大きくサン・テグジュペリの肖像画を配しているのは、世界中の紙幣の共通点ですね。


中央にヨーロッパとアフリカの地図がありますが、これにも細かい意味が仕込んであります。まず、フランス南西部のトゥールーズ(エアバスの本社がある)付近から、スペイン、モロッコへ伸びるピンクの線が、現エールフランス、当時アエロポスタル社の当時の郵便航空の航路で、サン・テグジュペリがここを飛んでいました。


パリから地中海を横断し、アフリカ、アラビア方面に伸びているもう1本のピンクの線が、サン・テグジュペリが最短飛行時間記録を狙ったパリ・ベトナムの航路です。ピンクの線がベトナムまで伸びていないのは、カイロに近いサハラ砂漠に不時着したためで、この不時着から『星の王子さま』の着想を得ました。


左上の「SPECIMEN」の文字の上のヘンな形を拡大すると以下になります。これは、サン・テグジュペリが描いた挿絵で、象を飲み込んだボーア蛇。「僕」は大人にこの絵に見せて「怖いでしょ?」と聞くのですが、誰も怖がってくれません。

この象は偽造防止を目的としていて、光学的変化インクで印刷してあり、光の当たる方向が変わると色が変わります。


紙幣の左下、「みほん」の文字の下には、偽造防止の透かしとして、下の左の羊の絵が入っています。

紙幣の左下には、サンテグジュペリが描いた『星の王子さま』の中で最も有名な王子の絵(故郷の惑星に立つ王子)を配しています。

50フラン札の裏面には、サン・テグジュペリの愛機であり、郵便飛行機としてアエロポスタルで使っていたフランス製の複葉機、ブレゲー 14を大きく印刷しています(飛行機としては、墜落した時のロッキード F-5A ライトニングの方が相応しいのですが、同機はアメリカ製なので、フランス政府が嫌がったのではないかと推測します)。


なお、裏面の右下の王子の絵は、表面の王子の絵の左右を反転させた鏡像で、正確に真ん中で折ると、両方の絵がピッタリ重なるようになっています。



以上、サン・テグジュペリの情報やネタをたっぷり取り上げました。このうんちくをつまみに、マレスコ・サン・テグジュペリをお楽しみいただけましたら幸いです。

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