鳥がさえずる森の中に、厳かに佇むシャトー・ド・ミラ。この歴史を感じるソーテルヌの格付け生産者が廃業を経験したとは、にわかに信じがたいことでしょう。
甘口ワインの「王様」ソーテルヌで、今、一体何が起きているのでしょう。
目次
貴腐ワインが生まれる場所
ソーテルヌはボルドー左岸に位置します。ちょうど、ガロンヌ川とその支流のシロン川が合流する場所で、この二つの川は水温が異なるために、秋になると霧が発生するのです。
この霧が原因で貴腐菌が発生し、その菌の働きを生かした甘口ワインが生まれます。
19世紀には飛ぶ鳥も落とす人気ぶりで、1855年のパリ万博に際しては、ナポレオン三世の命によって格付けが作られたほどだったのです。
神に約束されたソーテルヌ
貴腐ワインは、どこでも産出できるわけはありません。
①朝方、霧が発生し湿度が高くなること
②午後は晴天で乾くこと
③どんな菌でも良いわけでなく「ボトリティス・シネレア菌」であること
④ブドウが完熟した後に菌が発生すること
上記の四つが条件です。
もし成熟前に発生した場合は「灰色カビ病」という菌類病になりブドウは使い物になりません。この4条件が完璧に揃う場所は数えるほどしかなく、コンスタントに貴腐菌が発生するソーテルヌはまさに「Promised land(神に約束された土地)」なのです。
成熟したブドウに貴腐菌が繁殖した後は、ミクロサイズの菌糸を伸ばして果皮に穴を穿ちます。その穴から、果汁中の水分が蒸発するため、極端に甘い果汁を手に入れることができるのです。
貴腐の影響を受けたブドウから造られるワインは、アプリコット、マーマレード、ハチミツと甘美なアロマが現れます。
No sweet without sweat 原価高なワイン
貴腐ワインは世界一原価高なワインと言っても過言ではないでしょう。
まず上記4条件を満たすような場所は「希少性」があります。貴腐菌とその他カビ病を見分けるのは難しく熟練の収穫手も雇わなければなりません。おまけに畑では貴腐ブドウを粒単位で収穫するのが一般的です。
シャトー・ディケムでは100haあたり140人の労働者を雇い、多い年では11回にわたって収穫します。
スティルワイン用の畑では1ヘクタール当たり約600ユーロかかるのに対して、貴腐ブドウの収穫は、その3倍以上の約2000ユーロもかかるのです。
量がとれないのも原価高に拍車をかけています。貴腐菌が繁殖し干しブドウ状態になったブドウからはほとんど果汁を取り出せず、ブドウ樹1本からグラス1杯分のワインしか仕込むことはできません。
まさに「No sweet without sweat(汗水たらさずにご褒美はもらえない)」のです。
ディケムの苦い思い出
2012年、シャトー・ディケムが貴腐ワインを造らないと発表し、ワイン業界を震撼させました。
この年、収穫期の前半は良かったものの、後半は降雨に見舞われ、先の4条件が揃わなかったのです。
ディケムが貴腐ワインを発売できなかったのはこの年だけではなく、1910年から数えて合計で9ヴィンテージあります。
そのうちの1ヴィンテージの1915年は第一次世界大戦が理由で産出できませんでしたが、それ以外は全てのヴィンテージは天候不良が原因なのです。
格付けシャトーも廃業
かつては、甘いものは栄養価が高く貴重品でした。そのため王侯貴族などの一部の特権階級しか飲むことができなかったのです。
しかしもはや時代が違います。工業製の甘味製品がいとも簡単に入手できるようになったばかりか、飽食の時代では、甘口が敬遠されるようにもなりました。
その多くの理由が、健康志向によるものでしょう。輝かしい歴史で彩られたソーテルヌでも、やがて消費者は遠のいていきました。ソーテルヌの格付け2級のシャトー・ミラでさえ、1976年に廃業を経験したのです(その後、1980年代後半に営業再開)。
辛口ワインの誕生
甘口ワインに暗雲が立ち込める中、頭角を現したのが辛口ワインです。1959年、シャトー・ディケムは「Y(イグレック)」を、シャトー・リューセックも「R(エール・ド・リューセック)」をリリースしました。
ソーテルヌで辛口を産出した場合、AOCソーテルヌは名乗ることはできず、AOCボルドーとなります。
「甘口銘醸地ソーテルヌで辛口とはけしからん」と中には痛烈な批判もありました。伝統を重んじるフランス人ならばこの批判はもっとものことかもしれません。
まさに経営状況の改善とプライドの狭間に立たされ、苦渋の決断に踏み切ったと言えるでしょう。
しかし、これらの辛口は発売直後から好評で、現在はリスク管理という点でなく、多様性にも貢献しているのです。
クリオ・エクストラクション
1980年代後半以降は、貴腐が上手くつかなかったときの対処策として「クリオ・エクスストラクション」を導入する造り手も現れました。
貴腐菌の繁殖が十分でなかった収穫年に、収穫されたブドウを冷凍庫で氷結させ凍ったままプレスし、極端に甘い果汁を得るテクニックです。いわばアイスワインで起きることを人工的に再現した技術と言えるでしょう。
生産者に聞けば「うちはあまり使ってない」と返ってくることがほとんどですが、品質の一貫性を保つうえでの保険になっていることは間違えないでしょう。
もう深化は始まっている
逆境に立たされた時、人は深化するのかもしれません。その点、辛口ワインの誕生や最新技術導入と、ソーテルヌの変革は目を見張るものがあります。
これからもソーテルヌがどのような深化を見せるのか、ますます目が離せそうにありません。
ソーテルヌのワイン一覧