ワインを愛好する編集者・ジャーナリストの鈴木正文さんが、「一ぱいの葡萄酒」をテーマに寄せるエッセイ。第6回目は、『酒とバラの日々』という作品から詩人・アーネスト・ダウスンを取り上げます。
※連載タイトルに込めた鈴木正文さんの想いはコラム下部にて掲載しております。
著:鈴木 正文
編集者・ジャーナリスト。1949年東京生まれ。慶応大学文学部中退。CM製作会社進行助手、海運造船業界紙記者などを経て二玄社に入社後、雑誌編集に携わり、『NAVI』(二玄社)、『ENGINE』(新潮社)、『GQ JAPAN』(コンデナスト・ジャパン)各誌の編集長を務めたのち2022年に独立した。著書に『◯✕まるくす』(二玄社)、『走れ、ヨコグルマ』(小学館文庫)、『スズキさんの生活と意見』(新潮社)など。坂本龍一の2冊の自伝である『音楽は自由にする』(新潮社)および『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(同)では、聞き手を務めた。
映画の『酒とバラの日々』(Days of Wine and Roses)は1962年にアメリカで公開され、ヘンリー・マンシーニの作曲による同名のテーマ曲が米アカデミー賞楽曲賞の栄冠にかがやいた。このスロー・バラードの曲名を、おなじタイトルの映画があることも知らずに覚えたのは、ラジオから流れたジュリー・ロンドンの、もの憂げで哀切な歌唱を聴いたからであったし、なによりも曲名そのものの印象の強さゆえだった。
中学3年生だった僕のこの曲との出合いは、AMラジオ810キロヘルツの米軍極東放送網(FEN)の音楽番組で、だった。英語のタイトルをなんとか聴き分けて、それに「酒とバラの日々」という邦題が与えられていたことはあとで知った。時は、1963年。その年の6月にはビルボード誌のシングル・チャートで、坂本九の『SUKIYSAKI』(「上を向いて歩こう」)がトップ・ワンになり、それが3週つづいた。翌年2月には、ザ・ビートルズが『アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド』(邦題は『抱きしめたい』)でトップ・ワンを初奪取して、アメリカ中に、そして日本でも、どこでも、ビートルズ旋風が巻き起こった、というそんなころに、タイトルの意味すらよく理解できない曲名のフレーズが、ジュリー・ロンドンの歌声とともに、小さくない印象を少年のこころに残した。Days of Wine and Roses......ワインとバラの日々って?
映画のほうの『酒とバラの日々』は、1958年に大ヒットしたCBSのテレビ・ドラマがもとになったもので、テレビ版と映画版の両方の脚本を書き、それに『Days of Wine and Roses』というタイトルを付けたのは、1950〜60年代のアメリカのテレビ黄金期を代表する作家・脚本家のJ.P.ミラーであった。
ドラマも映画も、物語は、当時はその実態がまだよく知られていなかったアルコール依存症に、ふたりながらに陥った宣伝会社のPRマンとその妻の、愛と葛藤、そして破滅と再生をめぐるものであった。『お熱いのがお好き』(1959年)や『アパートの鍵貸します』(1960年)でのコミカルでパセティックな演技で人気絶頂だったジャック・レモンが一転、ニューヨークの魑魅魍魎が渦巻く宣伝業界のただなかで神経をすり減らし、ついには酒(=ワイン)に溺れていく男を好演した。そして、かれが愛する妻もまた、男の苦悩に巻き込まれてアルコール依存症になる。14、15歳の僕にはことのあらましの見当もつかないそんなドラマが背後に控えていることなぞ知らずにいたけれども、主題歌の美しくも物悲しげな曲調が、胸に迫った。
“The days of wine and roses(酒とバラの日々が)laugh and run away(笑って走り去る)like a child at play(遊びに耽る子どものように)”という歌詞の意味を理解できぬままに。
この歌詞の作者はJ.P.ミラーではなくジョニー・マーサーという人物だけれども、そもそものタイトルがJ.P.ミラーによるものであったことはすでに述べた。そしてミラーはこのタイトルを、イギリスのデカダン派(頽廃派)の詩人にして作家でもあったアーネスト・クリストファー・ダウスン(Ernest Christopher Dowson 1867−1900)のある詩から借用した。
その詩には、“Vitae Summa Brevis Spem Nos Vetat Incohare Longam”というラテン語の長いタイトルが与えられている。
英語に置き換えると、まず”vitae“は「いのち」の”life”であり、”summa”は合算して得られる総計や全体を意味する”sum”であり、”brevis”は「短い」という意味の”brief”なので、“Vitae Summa Brevis”は“Brief Sum of Life”(限りの短い人のいのちは)となる。つづく”spem”は「希望、望み」を意味する”hope”、”nos”は「われわれに」の”us”、”vetat”は「禁じる、許さない」という意味の”forbid”、”incohare”は「はじめる、着手する」を意味する”begin”の動名詞形の”beginning”、そして”longam”は「長い、長期の」という意味の”long”であるから、”Spem Nos Vetat Incohare Longam”は”Forbids Us to Begin Long Hopes”(長期の希望をかなえるためになにかをはじめることを許さない)となる。
つまりその意味は、「人生短し、長き希望をかなえること始めがたし」ということになるであろう。
ダウスンはオックスフォード大学のドロップアウトではあったが第一級の教養人で文学者だったから、ラテン語を解することはある種の自己証明でもあったようで、タイトルだけではあるにしても、四行から成るスタンザ(詩節)2つによるこの八行詩に、ラテン語のタイトルを与えたものとおもわれる。その第2詩節(スタンザ)の一行目に「酒とバラの日々」の詩句がある。
原詩全体はこうだ。
They are not long, the weeping and the laughter,
Love and desire and hate:
I think they have no portion in us after
We pass the gate.
They are not long, the days of wine and roses:
Out of a misty dream
Our path emerges for a while, then closes
Within a dream.
拙訳すると、以下のようになるだろうか(残念ながら、ダウスンの詩や散文の日本語訳書や文献は発見できなかったので、引用した詩は、ダウスン死後の1906年にイギリスで発行された『The Poems of Ernest Dowson』の「Kindle」版からの翻訳である)。
長くはつづかない、悲しみに涙し、よろこびに笑い、
愛し、求め、憎むのは。
思うに、どのひとつとしてわたしたちには残らない
わたしたちがあの門をくぐってしまえば。
長くはつづかない、ワインとバラの日々よ。
霧のかかった夢のひとつから
わたしたちが歩む道がいっとき姿を表し、そして姿を消す
夢のなかで。
日本語訳のまずさは、ご容赦ねがうとして、韻が仕込まれた原詩の抑揚と語のひびきの美しさを味わっていただきたい。
ダウスンは、喜怒哀楽の感情もあの世の門をくぐってしまえば跡形もなく消失し、快楽(ワイン)と幸福(バラ)もまた長くはつづかない夢のようだと詠じ、われわれの短い生涯は、さながら霧のなかから出現して、また霧のなかに消えていくはかない小道のようだ、とうたったのであった。
そして、『酒とバラの日々』のPRマンのジョー・クレイのように、ダウスンもまた、アルコール依存症だった。25歳のときに結核の父親が服薬過多により死亡し、26歳のときにはおなじく結核であった母親がみずから命を絶った。
ダウスンには、かれが捧げた愛を生涯拒みつづけた運命の女性、アデレードがいた。かの女が12歳のとき、24歳のダウスンは求婚し、その申し出は拒絶された。以降、叶えられない少女への思慕をまぎらわせるためか、ワインと女性に溺れる生活を送ったといわれる。その6年後、18歳になったアデレードは、かの女の父親がソーホーで営んでいた小さなレストランの給仕と結婚し、そのとき30歳のダウスンはすでに結核を病んでいた。そしてフランスに渡り、エミール・ゾラやオノレ・ド・バルザックやヴォルテールらの著作の翻訳をイギリスの文学雑誌『THE SAVOY』に寄稿して糊口をしのいだ。衰弱は高じ、しかし、酒びたりの生活から、バラのように美しい詩をつむいだ。
ダウスンは1900年、32歳で亡くなる。そのひと月ほど前、パリの居酒屋で酔いつぶれていた一文無しのダウスンを、作家でオスカー・ワイルドの友人であるロバート・シェラードが見つけ、ロンドンのシェラードの自宅にかれを連れ帰った。それからほどない1900年の2月23日、ダウスンはシェラードの家で亡くなった。
前述したダウスンの詩集本に「まえがき」を寄せた同時代のイギリスの詩人・編集者・文芸批評家であったアーサー・シモンズは、その小文の最後にこう述べている。
「かれは若くして亡くなった。かれにとっては一度たりとも本当の人生であったとはいえなかった人生にすっかり疲れ果て、ぼろぼろになって。わずかな数の詩を残して。その詩には『もののあはれ』(the pathos of things)があった。年をとって大人になるには若すぎた。壊れやすすぎた」
人に与えられたそもそも短い人生のうちでも、さらに短い人生をダウスンは生き、シモンズのいうようにわずかな数の美しい詩を残した。「the days of wine and roses」(酒とバラの日々)ということばはかれによって生みだされ、それは、詠み人を知らぬ無数の人々の口の端にさえ、百年をこえてのぼるようになった。
昨年の3月28日に71歳で他界した坂本龍一さんは、その数カ月前まで、自伝本のための口述をつづけ、『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(新潮社)というタイトルの本に、それは結実した。その本の、最後の2行には、ラテン語の字句をもふくむ文がある。こういうものだ。
「それでは、ぼくの話はひとまずここで終わります。Ars longa, vita brevis.(芸術は永く、人生は短し)」
連載タイトルについて
永井荷風がほぼ1年のフランス遊学を終えて、日本に帰る船にロンドンから乗ったのは1908(明治41)年6月のことであった。『ふらんす物語』として翌年に公刊されるはずが風俗を乱すとして発禁処分となり、後年(1915年)、日の目を見たこの本のなかに、「1908年6月船中にて」とのただし書きのある「巴里のわかれ」というタイトルの小文がある。
それは、日本に帰るべく、パリから列車に乗り、ディエップ港で船に乗り換えて英仏海峡を渡ってロンドンに投宿した荷風が、ヨーロッパで過ごす最後の晩の食事をとりに外出し、辻馬車の御者にたずねて、「フランス人の居留地」があるというオックスフォード・ストリートの、とある「汚い安料理屋」に入ったときの回想をつづったものである。そこは「懐しい三色の国旗がユニオンジャックの旗と差し違いに出してある料理屋」であった。荷風は書く。
「……入口に近く、よごれた白布(ナップ)を敷いたテーブルには三人の職人風の男、中央(まんなか)には商人らしい男が四五人、稍(すこし)離れた片隅には醜からぬ女が一人坐っていた。その服装、容貌、帽子の形、見すぼらしいけれども一目見て特徴の著しい『巴里女』(パリジエーヌ)である。自分はさながら砂漠の中に一帯の青林(せいりん)を見出したような気がした」と。
そうして、その「パリジエーヌ」が、「汚れた壁に添うた汚れたテーブルの上に片肘をつき、物思わし気に時々は吐息をもつくようで、手にした肉叉(にくさし)に料理をさしながら食べようともせず、蝿の糞で汚れた天井を現(うつつ)に仰いでいる様子は、どうしても異(ちが)った国から移植(うつしう)えた草花の色もあせやつれた風情である」として、荷風は、その「もの淋しく物哀れ」な様子に「漂白(さすらい)の悲しみを覚え」、こう述べる。
「あの女はどうしてあの美しいフランスを去ったのであろう。若しこれが巴里の街であるならば、同じ場末の安料理屋にしても、アブニューを蔽うマロニエの若葉の蔭、道端のテラスで、紫色に暮れて行く街の人通を眺め、何処からともなく聞えて来るヴィヨロンの調(しらべ)を聞きながら、陶然一ぱいの葡萄酒に酔おうものを……と今は他人(ひと)の身の上ならぬ過ぎし我が巴里の生活を思いはじめる」と。
このとき、荷風の想念をよぎった「一ぱいの葡萄酒」への万感のおもいは、また、歓びはいうまでもなきこととして、「漂白の悲しみ」をも縁なしとしない僕(たち)のおもいでもある。葡萄酒は飲まれるべきものばかりではない。それは(ぜひとも)語られるべきものでもある。そして、葡萄酒をめぐる語りは、願わくば、「一ぱいの葡萄酒」の美味を増すものであってほしい。そんなおもいをこめて、この連載のタイトルを「一ぱいの葡萄酒」とすることにした。(鈴木正文)