【第七話】「一杯のおいしい紅茶」と「ビールを飲む理由」

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公開日 : 2024.4.12
更新日 : 2024.4.12
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ワインを愛好する編集者・ジャーナリストの鈴木正文さんが、「一ぱいの葡萄酒」をテーマに寄せるエッセイ。第7回目は、本連載名の由来となったエピソードからジョージ・オーウェルのエッセイを取り上げます。

※連載タイトルに込めた鈴木正文さんの想いはコラム下部にて掲載しております。

著:鈴木 正文


編集者・ジャーナリスト。1949年東京生まれ。慶応大学文学部中退。CM製作会社進行助手、海運造船業界紙記者などを経て二玄社に入社後、雑誌編集に携わり、『NAVI』(二玄社)、『ENGINE』(新潮社)、『GQ JAPAN』(コンデナスト・ジャパン)各誌の編集長を務めたのち2022年に独立した。著書に『◯✕まるくす』(二玄社)、『走れ、ヨコグルマ』(小学館文庫)、『スズキさんの生活と意見』(新潮社)など。坂本龍一の2冊の自伝である『音楽は自由にする』(新潮社)および『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(同)では、聞き手を務めた。

この連載の「一ぱいの葡萄酒」というシリーズ・タイトルは、毎回の記事の末尾に掲載されている「連載タイトルについて」という文章で触れているように、永井荷風の『ふらんす物語』中のあるエピソードに由来している。それは、ロンドンのとある「汚い安料理屋」で見かけた「巴里女」(パリジエーヌ)についてのもので、かの女の「もの淋しく物哀れ」な様子に、荷風は、日本に帰るために後にしてきたフランスの地と、そこでの「一ぱいの葡萄酒」におもいを馳せる。「一ぱいの葡萄酒」とともにある生活は、荷風にとって、生きるうえで、失ってはならないなにか、であったかのように。


ワインをめぐって小文の連載をはじめるにあたって、僕が「一ぱいの葡萄酒」というタイトルを思いついた下地には、ロンドンの「汚い安料理屋」で荷風がいだいたおもいへの共感のほかにも、ジョージ・オーウェル(1903-1950)の「一杯のおいしい紅茶」というエッセイに受けていた感銘がある。


偉大なディストピア小説の『1984年』と『動物農場』の作家であり、『カタロニア讃歌』や『ウィガン波止場への道』をものしたジャーナリストでもあったジョージ・オーウェルは、1936年にはじまったスペイン内戦では、共和国政府を支援する国際義勇兵の一員として戦闘に参加し、前線で、ファシストの狙撃兵の弾丸にのどを撃ち抜かれる目に遭い、しかし、辛うじて生き延びるという波乱万丈の人生を送り、わずか46歳にして肺結核のためにその生涯を閉じざるをえなかった人物で、みずからそう主張したように、断固たる「人間主義者」(ヒューマニスト)であった。最晩年の1949年には、非暴力・不服従をかかげてインドの独立運動を主導したガンディーの前年の死をうけて、「ガンディーを想う」(Reflection on Gandhi)という小文を雑誌に寄せ、「人間こそが万物の尺度であるという信念、われわれにはこの世しかないので、われわれの務めはこの世での人生を生きるに値するものにすることなのだという信念」こそ重要だ、と述べている。そして、これがかれの最後の評論であった。全体主義や専制政治を苛烈に批判するいっぽうで、一杯のおいしい紅茶に固執する文章も残したかれにとって、そのどちらもが、「人生を生きるに値するものにする」ために、等しい価値をもつものであった(ということなのだおもう)。

紅茶
Illustrated by 坪本幸樹

「一杯のおいしい紅茶」は、1946年1月12日付けの英『イヴニング・スタンダード』紙に掲載されたエッセイである(英語の原文はネットで「George Orwell A Nice Cup of Tea」を検索すればだれでも読むことができる。ここでの同文からの引用は、小野寺健編訳の中公文庫版の『一杯のおいしい紅茶』からのものだ)。


それは、こんなふうにはじまる。


「手近な料理の本を開いて『紅茶』の項目を探しても、まず見つからないだろう。たとえ二、三行かんたんなことは書いてあっても、いちばん大事ないくつかの点では何の参考にもならないのが関の山なのだ」と。そして、「これは妙な話である。何しろ紅茶といえば、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランドまでふくめて、この国の文明をささえる大黒柱の一つであるばかりか、その正しいいれかたは大議論の種なのだから」とつづくのだけれど、オーウェルが1946年早々に、ということは第2次大戦終結の直後の時期に、「一杯のおいしい紅茶」を、あたかも国民的な大問題であるかのように新聞紙上で論じたのは、戦勝国のイギリスにあってさえなお、人々は配給生活を強いられていて、イギリス的文明生活の「大黒柱」である紅茶にかんしていえば、その配給量は2オンスというきわめて乏しいものだったからである。ちなみに、最近はあまり見かけなくなった通常の紅茶缶の容量は4.4オンスだから、2オンスはその半分にも満たない。オーウェルは、そこからぜひとも、「濃くておいしい二十杯の紅茶だけはしぼりだしたいものである」と、述べている。


オーウェルによれば、完璧な紅茶のいれかたについては、ぜったいに譲れない項目が少なくとも11はあるという。


かいつまんで列挙すると――①茶葉の産地はインドかセイロンであるべし②茶葉は陶磁器のティー・ポットに入れるべし③ポットはお湯ですすぐのではなくコンロやストーヴや暖炉の台などで前もって温めておくべし④一杯の濃い紅茶は二十杯の薄い紅茶にまさるから茶さじ山盛り6杯の茶葉を1リットル強入るポットに投入すべし⑤茶葉は茶こしや袋に入れたりせず、ポットのなかで自由に動けるようにそのまま投入すべし⑥お湯は葉にぶつかるその瞬間にも沸騰していなければならないから、ポットはお湯が沸き立つやかんのところまで運ぶべし⑦紅茶ができたらポットごとゆすり、そうして茶葉が底におちつくまで待つべし⑧カップはすぐ冷めてしまう浅く平たい形のものではなくブレックファースト・カップであるべし⑨ホット・ミルクのクリーム部分を取り除いて紅茶に入れるべし⑩議論が紛糾する最大のポイントではあるが、ミルクは紅茶を入れたあとに分量を加減しながら、かきまぜつつ入れ、ミルクの入れすぎをふせぐべし⑪そして、紅茶はビール同様苦いものと決まっているのだから、そう主張するのは少数派であろうが、砂糖は入れざるべし、となる。


オーウェルが愛好したのは紅茶だけではない。ビールも、だ。


1943年にBBC(英国放送協会)の週刊誌『リスナー』に、『パブと大衆』という「世論調査所」なるところが発行した本の書評を、「ビールを飲む理由」というタイトルをつけて寄稿したオーウェルは、労働者街のパブで常連が平らげるビールの年間消費量は、過去70年で、ひとりあたり3分の2近く減ったこと、そしてそのことをもって「パブは文化的施設としての役割を失いつつある」とした同書中の調査員の結論に言及し、その原因が「映画とラジオという、麻薬のような受け身の快楽がじりじりと浸透しはじめたこと」にあるという説を紹介したあとで、ある世論調査員が「なぜビールを飲むのか」という質問をしたときに、ある女性が返したという次のようなことばを引いている(この書評は中公文庫の『一杯のおいしい紅茶』に収められている)。


「あたしは、昔、お祖母さんが夜ビールを飲んでいるのを見てると、楽しかったのよ。とても美味そうだったわ。おつまみは、干からびたパンにチーズをのっけただけだったのに、それがご馳走みたいに見えてね。ビールを飲んでりゃ百まで生きられるって、お祖母さんは言ってたわ。九十二で死んだけど。わたしゃ、けっしてビールは嫌いだなんて言わないよ。悪いビールなんかないって、お祖母さんが言ってたから」


そして、こう書くのだ。

「詩のように記憶に刻みこまれずにはいない、このささやかな一文だけでも、ビールがわるくない証拠としては充分だろう。別にそんな証拠はいらないと思うが」と。


この「ささやかな一文」のなかの「ビール」を「ワイン」に置き換えたとして、なんの不都合があるだろうか、と僕はおもう。そして、「一杯のおいしい紅茶」ならぬ「一ぱいの葡萄酒」のおいしい飲みかたについても、ぜったい譲れない11項目を、編み出してみたいものだ、とも。

連載タイトルについて

永井荷風がほぼ1年のフランス遊学を終えて、日本に帰る船にロンドンから乗ったのは1908(明治41)年6月のことであった。『ふらんす物語』として翌年に公刊されるはずが風俗を乱すとして発禁処分となり、後年(1915年)、日の目を見たこの本のなかに、「1908年6月船中にて」とのただし書きのある「巴里のわかれ」というタイトルの小文がある。


それは、日本に帰るべく、パリから列車に乗り、ディエップ港で船に乗り換えて英仏海峡を渡ってロンドンに投宿した荷風が、ヨーロッパで過ごす最後の晩の食事をとりに外出し、辻馬車の御者にたずねて、「フランス人の居留地」があるというオックスフォード・ストリートの、とある「汚い安料理屋」に入ったときの回想をつづったものである。そこは「懐しい三色の国旗がユニオンジャックの旗と差し違いに出してある料理屋」であった。荷風は書く。


「……入口に近く、よごれた白布(ナップ)を敷いたテーブルには三人の職人風の男、中央(まんなか)には商人らしい男が四五人、稍(すこし)離れた片隅には醜からぬ女が一人坐っていた。その服装、容貌、帽子の形、見すぼらしいけれども一目見て特徴の著しい『巴里女』(パリジエーヌ)である。自分はさながら砂漠の中に一帯の青林(せいりん)を見出したような気がした」と。


そうして、その「パリジエーヌ」が、「汚れた壁に添うた汚れたテーブルの上に片肘をつき、物思わし気に時々は吐息をもつくようで、手にした肉叉(にくさし)に料理をさしながら食べようともせず、蝿の糞で汚れた天井を現(うつつ)に仰いでいる様子は、どうしても異(ちが)った国から移植(うつしう)えた草花の色もあせやつれた風情である」として、荷風は、その「もの淋しく物哀れ」な様子に「漂白(さすらい)の悲しみを覚え」、こう述べる。


「あの女はどうしてあの美しいフランスを去ったのであろう。若しこれが巴里の街であるならば、同じ場末の安料理屋にしても、アブニューを蔽うマロニエの若葉の蔭、道端のテラスで、紫色に暮れて行く街の人通を眺め、何処からともなく聞えて来るヴィヨロンの調(しらべ)を聞きながら、陶然一ぱいの葡萄酒に酔おうものを……と今は他人(ひと)の身の上ならぬ過ぎし我が巴里の生活を思いはじめる」と。


このとき、荷風の想念をよぎった「一ぱいの葡萄酒」への万感のおもいは、また、歓びはいうまでもなきこととして、「漂白の悲しみ」をも縁なしとしない僕(たち)のおもいでもある。葡萄酒は飲まれるべきものばかりではない。それは(ぜひとも)語られるべきものでもある。そして、葡萄酒をめぐる語りは、願わくば、「一ぱいの葡萄酒」の美味を増すものであってほしい。そんなおもいをこめて、この連載のタイトルを「一ぱいの葡萄酒」とすることにした。(鈴木正文)

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