作家・料理家。服部栄養専門学校卒業後、料理教室勤務や出張料理人などを経て、2005年『さよならアメリカ』で群像新人文学賞を受賞し、作家デビュー。作家として作品を発表する一方、料理家としても活動し、メニュー開発なども手がける。 主な著書 『スープの国のお姫様』(小学館) 『おいしいものには理由がある』(角川書店) 『最高のおにぎりの作り方』(KADOKAWA) 『ぼくのおいしいは3でつくる』(辰巳出版)
この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
国分寺に引っ越してすぐに、ユカは気になる店を見つけた。その店は商店街の外れにあって、表にメニューはなく、おまけに扉は重たそうな鉄製だった。バーだろうか。はっきり言って入りづらい。
新しい暮らしは悪くはなかった。けれど、心のどこかに小さな穴が空いたような気分だったのは、六年付き合って、一緒に住んだ恋人と別れたばかりだったからだ。
その日、彼女がいつものように店の前を通り過ぎた時のこと。重たそうな扉が少し開き、思わず立ち止まると、出てきた店主と目があった。折り目正しいシャツを着て、顔に感じのいいシワが刻まれたやさしそうな人だ。
「入れますか?」
思わずそう言うと、店主は一瞬、戸惑ってから「どうぞ」と扉を開けた。店内は木目を基調とした温かい空間で、小さな音量でボサノバがかかっている。カウンターに案内され、腰を下ろす。
「いらっしゃいませ」
温かいおしぼりで手を拭うと気分が落ち着いた。
「ええと……どうしようかな」
「バーとか、よく来られるんですか?」
ユカは首を横に振った。自分でもどうしてこの店に入ったのか、わからない。
「二ヶ月前に近くに引っ越してきたばかりで、前を通りかかって気になっていたんです」
「それはそれは。ご来店ありがとうございます」
バーテンダーが軽く会釈した時、扉が開いた。その隙間からコートを着た中年男性が見えた。〈入れますか?〉と彼が聞くとバーテンダーは申し訳無さそうに首を横に振った。
「申し訳ありません。この後、貸し切りが入ってまして」
男性はしょうがない、という風に小さく二、三度頷くと、扉を閉めた。店内に再びボサノバの音が戻った。
「わたし、大丈夫でした? この後、お客さんが……」
「いえいえ、そういうわけではないんです。うちは男性、女性にかかわらず一見のお一人様のお客は申し訳ないですけど、お断りしているんです。ま、店のルールみたいなものです」
「でも、わたし一人でしたよ」
店主は困ったように首をかしげた。
「ご近所のよしみで許してください。うちはワインも揃っているのでご興味があればぜひ。グラスも色々出せますよ」
「お酒は嫌いじゃないんですけど、あまり強くなくて、ワインはあまり飲まないんです。なにか甘めのカクテルをもらえますか?」
ミカンを使ったカクテルを提案され、ユカは頷いた。グラスに注いだそれを一口飲むと甘酸っぱい味が口に広がった。カウンターの奥に視線を向けるとガラスの蓋がかかったカマンベールチーズが目に入った。
「チーズ、少し食べますか?」
頷くと店主はナイフでそれを切り、模様の入った金属の小さな皿に並べた。
「そうだ」
彼は思いついたようにそう言うと、引き出しからチョコレートビスケットを取りだして、横に添えた。一緒に食べると美味しい、という。試してみると口の中にチーズの白い味とチョコレートのほろ苦い甘さが混ざりあった。
「新しく仕入れたワインがあるので良かったら少し味見してください。甘いワインとの組み合わせ、とてもおいしいと思うんですよ」
スクリューキャップをひねると空気が抜ける音が聞こえた。グラスに注ぐと細かな泡が浮き上がっては消える。その音は人々のざわめきに少し似ている。ワインを口に含むと、マスカットと花の蜜のような香りがして、さっきの味がさらに濃く、深くなった。正反対のものが混ざり合って、まったく別のものに変わる。まるで人との出会いみたいに。そして、味はなくなっても消えてしまうわけではなく、美味しかった記憶は残る。
「いかがですか?」
ユカはもう一度ワインを口に運ぶ。いつのまにかカマンベールチーズのような形をした心の穴はすっかり塞がっている。ワインが少し好きになりそうだ。新しい世界の扉が開いた気がした。
カマンベールチーズとチョコレートビスケット
【材料】(2人前)
・カマンベールチーズ 1個
・チョコレートビスケット 4枚
・黒こしょう 適量
【作り方】
1. カマンベールチーズは常温に30分戻し、7〜8mm厚にスライス。
2. チョコレートビスケットにカマンベールチーズを載せ、黒こしょうを振りかける。
文・写真=樋口 直哉