【第八話】アンジェロ・ガヤはシュルレアリストである

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公開日 : 2024.5.24
更新日 : 2024.5.24
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ワインを愛好する編集者・ジャーナリストの鈴木正文さんが、「一ぱいの葡萄酒」をテーマに寄せるエッセイ。第8回目は、“イタリアワインの帝王”と呼ばれるガヤの4代目当主、アンジェロ・ガヤ氏を取り上げます。

※連載タイトルに込めた鈴木正文さんの想いはコラム下部にて掲載しております。

著:鈴木 正文


編集者・ジャーナリスト。1949年東京生まれ。慶応大学文学部中退。CM製作会社進行助手、海運造船業界紙記者などを経て二玄社に入社後、雑誌編集に携わり、『NAVI』(二玄社)、『ENGINE』(新潮社)、『GQ JAPAN』(コンデナスト・ジャパン)各誌の編集長を務めたのち2022年に独立した。著書に『◯✕まるくす』(二玄社)、『走れ、ヨコグルマ』(小学館文庫)、『スズキさんの生活と意見』(新潮社)など。坂本龍一の2冊の自伝である『音楽は自由にする』(新潮社)および『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(同)では、聞き手を務めた。

アンジェロ・ガヤには東京・広尾の「エノテカ本店」で5、6年前に行われた催事のときに、ちょっと立ち話をしたときをふくめて2度会った。初対面は、2017年12月の上旬、場所はバルバレスコ村トリノ通り18番地の、ガヤ・ファミリーの居宅もあれば事務所もセラーもあり、ヴィンヤードが目の前にひろがる「ガヤ」(GAJA)の本拠で、であった。


激情家で、ときに豪快、ときに繊細な縦横無尽のウィットに富み、冷徹な観察者にして果断な挑戦者であるかれなくしては、バルバレスコおよびバローロの、こんにちの世界的名声はなかったであろう、というのが各種ワイン・メディアや身近なワイン専門家および関係者を通じて、僕が得ていたかれにまつわる知識だった。


初対面時には77歳だった1940年生まれのかれの、その年齢から漠然といだいていた予想は、完膚なきまでに打ち砕かれた。はち切れるような快活さが、かれの衰えを見せぬ肉体と精神を貫いていたからだ。獲物をみつけた鷹のように鋭利な目が、ワインやファミリーを語るときには、おおらかで、邪気のない慈愛に満ちたものへとやわらいだ。会話の中身は、いまではあらかた忘却の淵に沈んでしまっているけれど、その場に、さわやかな風のごとき空気が吹き抜けた気分になった。それは、いまもおぼえている。


ということはともかく、7年前の冬の日にもどれば、ミラノを朝8時にクルマで出ておよそ2時間ののち、行き交う車両同士がようやくすれ違えるほどの幅しかない石畳の道を上ってかれの本拠にたどり着くと、外気温は摂氏ゼロ度だった。標高が200〜300メートルというランゲの丘陵にひろがるブドウ畑のチョコレート・ブラウンの土は、うっすらと雪の衣をまとい、遅い朝日に、キラキラと白く輝いていた。うつくしかった。


アンジェロ・ガヤは、1859年にこの村にワイナリーを開いた初代のブドウ農家の主、ジョヴァンニ・ガヤを曽祖父に戴く「GAJA」の4世代目の当主である。3世代目の主だった父・ジョヴァンニは、自家製の葡萄酒を、小料理とともに楽しんでもらうタヴァン(居酒屋食堂)を営んでいた。バルバレスコのワイン生産者が、葡萄酒をタヴァンやレストランに匿名で樽売りしていたそのころ、ジョヴァンニは、「GAJA」という生産者の名前を、赤い大文字で描いたレーベルをつくってボトルに貼り付け、プレミアムなプライスで売ったという。そんなワイン生産者は、むろんいなかった。1937年のことだ。「エノテカ」の廣瀬恭久顧問いわく、「いまでいうブランド・ビジネスですよ」。


だれもやったことのないことに挑み、精魂込めてつくったワインの価値を積極的に高めていくというジョヴァンニの果敢なスピリットは、かれの息子であるアンジェロに受け継がれた。


アンジェロは、アルバのワイン醸造学研究所で学び、世界最古の部類の医科大学として知られる南仏のモンペリエ大学でも醸造学を修め、21歳だった1961年に、ファミリー・ビジネスに飛び込んだ。そして、たちまち全力疾走で数々の革命的な施策を実行し、ピエモンテのワイン・メーカー/栽培農家の界隈に、猛烈な新風を吹き込んだ。いくつか数え上げるなら、グリーン・ハーヴェスト法を持ち込んだのも、農家からのブドウの購入をやめて自家ヴィンヤード産のブドウのみを使うようにしたのも、ステンレス・タンクを導入してマロラクティック発酵をおこなったのも、バリックによる熟成に踏み込んだのも、バルバレスコではアンジェロがはじめてやってのけた革新であった。それらはガヤのバルバレスコの品質と価格を飛躍的に引き上げた。バルバレスコのワイン一般が、安物ワインとして軽んじられていたことに、かれは我慢がならなかったのである。


そして、ここでぜひとも触れておきたいのが、「ダルマジ」(DARMAGI)というワインにまつわるエピセードである。


1978年、アンジェロが38歳のときのことだった。父も暮らす家の目の前に、ガヤのネッビオーロ品種のための、とっておきの畑があった。アンジェロは、そこのネッビオーロのブドウ樹を全部引っこ抜いた。代わりに、ボルドー・ワインのメイン品種であるカベルネ・ソーヴィニヨンを植えるために、であった。そして、収穫したブドウをバリック樽で熟成し、最高級のボルドー・ワインに引けをとらない赤ワインを、バルバレスコのテロワールがつくり得ることを、証明しようとしたのである。


アンジェロの突拍子もないこの企てに、父親のジョヴァンニはおどろき、かつ呆れて、「ダルマジ!」(「なんたること!」とか「残念!」とかの意味のピエモンテの方言)と叫んだという。そして――、このボルドー種によるバルバレスコの赤ワインは、ポイヤックのベスト・シャトーのワインと変わらぬ高評価と高価格を享受するにいたった。アンジェロがそのために払った人並みならぬ努力には、讃嘆の念を禁じ得ない。そして父・ジョヴァンニの痛切な失望の叫びを、ワインの名前にしたかれの破天荒で図太いユーモアには、晴れやかな笑みとともに、深甚な敬意を捧げたい。

アンジェロ・ガヤ氏
Illustrated by 坪本幸樹

と、ここまでは、ワイン愛好家の多くがすでに知っている、と想像されることだ。にもかかわらず、いま、あらためてそれに言及したのは、シュルレアリスムの手法のひとつとして知られる「デペイズマン」とアンジェロの突拍子もない企てとを、関連づけてみたいという欲望にかられたからである。


デペイズマン(depaysement)というフランス語は、動詞の「デペイゼ」(depayser)の名詞形で、「デ」(de)は分離・剥離を表す接頭語で、「ペイ」(pays)は国とか故郷とかの意味だ。「デペイズマン」は、したがって、「ある国(故郷)から引き離してほかの国(土地)へ追放する」というのが大元の意味である(一般の仏和辞典では、「環境・習慣の変化、気分転換」とか「居心地の悪さ、違和感」といった語義が与えられている)。


この「デペイズマン」は、シュルレアリスムの運動においては、あるものを本来あるべき場所や環境から引き離して、それを、本来あるべきではない場所や環境に出合わせることによって異和を生じさせ、「常識」の及ばない芸術的効果を得るための営為のことである、と理解されている。


シュルレアリストがその好例としてしばしば引き合いに出すのは、ロートレアモンによる散文詩の『マルドロールの歌』のなかの一節で、そこでは、イギリスの美少年をたたえて、「ミシンとコウモリ傘との、解剖台のうえでの偶然の出合いのように、彼は美しい」と、述べられている。「彼の美しさ」は、ミシンとコウモリ傘とが解剖台のうえで出合う、という例外的な状況によってつくりだされるところの、意図されざる「美」とおなじように例外的である、と、この一節はいわんとしているように読めるけれども、果たしてそれが、「美しい」ものであるかどうかの問題もふくめて、その解釈については諸議論があり、ここではそれについては深入りしない。しかし、出合うはずのないもの同士の出合いが、おもいがけない美や衝撃をつくりだし得る、ということは、認めなければならない、とおもう。


アンジェロ・ガヤは、バルバスコ村の葡萄畑に、自然状態では出合うはずのないカベルネ・ソーヴィニヨンを持ち込んだ。ボルドーの故郷から引き剥がされたカベルネ・ソーヴィニヨンは、遠く離れたピエモンテの丘にかくして出合い、そうして、アンジェロの粉骨砕身の努力によって、魔術的な葡萄酒となったのである。


ニューヨーク・ダダの代表的な美術家であったマルセル・デュシャンは、工業製品として販売されていた男性用の便器に「泉」という作品名をつけ、ニューヨークのアートの展示会にそれを出品し、「便器」であったモノを、本来そこにあるべきではないおもいがけない場所に置いた。その便器はこのとき、便器としての使用価値を有する「有用なモノ」としての意味と価値を喪失し、どんな使用価値(=有用性)ももたないがゆえのひとつの、別種の価値物として、アート・オブジェになり、そのようなものとして「超・現実」(シュルレアル)を得た。


アンジェロ・ガヤが「ダルマジ」を創造するために挑んだこころみは、カベルネ・ソーヴィニヨンとバルバレスコのテロワールという本来出合うはずのない出合いを両者にもたらした。それは、そのかぎりでは、「デペイズマン」の営為であった、といえる。とはいえ、デュシャンの「泉」のように、アート・オブジェとしての「超・現実」をつくりだしたわけではない。それは、依然として、ワインという「飲める現実」であることに変わりはないからだ。


しかし、「本来あるべきではないおもいがけない場所」にカベルネ・ソーヴィニヨンを植えるにいたったかれの想像力と、ネッビオーロを根こそぎ引き抜いてまでそれを実行した勇気とは、美術や文学においてシュルレアリストたちが起こした革命にも匹敵する革命的で創造的な行為であり、心意気であった、と僕はおもう。それゆえ、アンジェロ・ガヤは、ワイン界のシュルレアリストである、と僕はいってしまいたい。


「一ぱいの葡萄酒」の美味へといたる、おもいもかけないあたらしい道をひらくことは、これからだって可能であることを、ピエモンテの巨人の歩みは教えている。

連載タイトルについて

永井荷風がほぼ1年のフランス遊学を終えて、日本に帰る船にロンドンから乗ったのは1908(明治41)年6月のことであった。『ふらんす物語』として翌年に公刊されるはずが風俗を乱すとして発禁処分となり、後年(1915年)、日の目を見たこの本のなかに、「1908年6月船中にて」とのただし書きのある「巴里のわかれ」というタイトルの小文がある。


それは、日本に帰るべく、パリから列車に乗り、ディエップ港で船に乗り換えて英仏海峡を渡ってロンドンに投宿した荷風が、ヨーロッパで過ごす最後の晩の食事をとりに外出し、辻馬車の御者にたずねて、「フランス人の居留地」があるというオックスフォード・ストリートの、とある「汚い安料理屋」に入ったときの回想をつづったものである。そこは「懐しい三色の国旗がユニオンジャックの旗と差し違いに出してある料理屋」であった。荷風は書く。


「……入口に近く、よごれた白布(ナップ)を敷いたテーブルには三人の職人風の男、中央(まんなか)には商人らしい男が四五人、稍(すこし)離れた片隅には醜からぬ女が一人坐っていた。その服装、容貌、帽子の形、見すぼらしいけれども一目見て特徴の著しい『巴里女』(パリジエーヌ)である。自分はさながら砂漠の中に一帯の青林(せいりん)を見出したような気がした」と。


そうして、その「パリジエーヌ」が、「汚れた壁に添うた汚れたテーブルの上に片肘をつき、物思わし気に時々は吐息をもつくようで、手にした肉叉(にくさし)に料理をさしながら食べようともせず、蝿の糞で汚れた天井を現(うつつ)に仰いでいる様子は、どうしても異(ちが)った国から移植(うつしう)えた草花の色もあせやつれた風情である」として、荷風は、その「もの淋しく物哀れ」な様子に「漂白(さすらい)の悲しみを覚え」、こう述べる。


「あの女はどうしてあの美しいフランスを去ったのであろう。若しこれが巴里の街であるならば、同じ場末の安料理屋にしても、アブニューを蔽うマロニエの若葉の蔭、道端のテラスで、紫色に暮れて行く街の人通を眺め、何処からともなく聞えて来るヴィヨロンの調(しらべ)を聞きながら、陶然一ぱいの葡萄酒に酔おうものを……と今は他人(ひと)の身の上ならぬ過ぎし我が巴里の生活を思いはじめる」と。


このとき、荷風の想念をよぎった「一ぱいの葡萄酒」への万感のおもいは、また、歓びはいうまでもなきこととして、「漂白の悲しみ」をも縁なしとしない僕(たち)のおもいでもある。葡萄酒は飲まれるべきものばかりではない。それは(ぜひとも)語られるべきものでもある。そして、葡萄酒をめぐる語りは、願わくば、「一ぱいの葡萄酒」の美味を増すものであってほしい。そんなおもいをこめて、この連載のタイトルを「一ぱいの葡萄酒」とすることにした。(鈴木正文)

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