【第九話】パリのヘミングウェイと「通りすがりの女(ひと)」

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公開日 : 2024.6.17
更新日 : 2024.7.12
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鈴木正文の”一ぱいの葡萄酒”

ワインを愛好する編集者・ジャーナリストの鈴木正文さんが、「一ぱいの葡萄酒」をテーマに寄せるエッセイ。第9回目は、1954年のノーベル賞作家であるヘミングウェイを取り上げます。

※連載タイトルに込めた鈴木正文さんの想いはコラム下部にて掲載しております。

著:鈴木 正文


編集者・ジャーナリスト。1949年東京生まれ。慶応大学文学部中退。CM製作会社進行助手、海運造船業界紙記者などを経て二玄社に入社後、雑誌編集に携わり、『NAVI』(二玄社)、『ENGINE』(新潮社)、『GQ JAPAN』(コンデナスト・ジャパン)各誌の編集長を務めたのち2022年に独立した。著書に『◯✕まるくす』(二玄社)、『走れ、ヨコグルマ』(小学館文庫)、『スズキさんの生活と意見』(新潮社)など。坂本龍一の2冊の自伝である『音楽は自由にする』(新潮社)および『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(同)では、聞き手を務めた。

「一人の若い女性が店に入ってきて、窓際の席に腰を下ろした。とてもきれいな娘で、もし雨に洗われた、なめらかな肌の肉体からコインを鋳造できるものなら、まさしく鋳造したてのコインのような、若々しい顔立ちをしていた。髪は烏の羽根のように黒く、頬に斜めにかかるようにきりっとカットされていた」


ヘミングウェイ(1899‐1961)が猟銃自殺した1961年の前年に脱稿し、死後の1964年に出版された『移動祝祭日』の冒頭に置かれた「サン・ミシェル広場の気持のいいカフェ」という第1話のなかの一節である(引用文は高見浩訳『移動祝祭日』新潮文庫)による)。


つづきを読もう。


「ひと目彼女を見て気持ちが乱れ、平静ではいられなくなった。いま書いている短編でも、どの作品でもいい、彼女を登場させたいと思った。しかし、彼女は外の街路と入口双方に目を配れるようなテーブルを選んで腰を下ろした。きっとだれかを待っているのだろう。で、私は書きつづけた」


パリ暮らしをはじめたヘミングウェイは、セーヌ左岸の「サン・ミシェル広場の気持のいいカフェ」の常連客となり、ある期間の日中、ここで短編を書くことを習慣化していた。1921年、22歳のとき、最初の妻となったハドリーと結婚したかれは、カナダの『トロント・スター』紙の契約記者として結婚直後にパリに移住し、記者活動の傍ら、作家修業に打ち込んでいた。パリに住んだのは1927年、28歳になるまでだった。その6年間に、アメリカのひとりの無名の青年にすぎなかったかれは、『われらの時代』(1925年)を、さらには『日はまた昇る』(1926年)を著し、世界文学の歴史に永遠の名を刻むことになった。そのパリ時代の思い出を最晩年に綴ったのが、『移動祝祭日』である。


筆はすすむ。


「ストーリーは勝手にどんどん進展していく。それについていくのがひと苦労だった。セント・ジェームズをもう一杯注文した。顔をあげるたびに、その娘に目を注いだ。鉛筆削り器で鉛筆を削るついでに見たときは、削り屑がくるくると輪になってグラスの下の皿に落ちた」


「セント・ジェームズ」とはマルティニーク産のラム酒である。ちなみに、アメリカは禁酒法の時代である。ヘミングウェイは、「寒い日にはこれが素晴らしくうまい」と書いている。それはともかく、鉛筆を削るあいだ、かれはかの女に見とれていた。


「ぼくはきみに出会ったんだ、美しい娘よ。きみがだれを待っていようと、これっきりもう二度と会えなかろうと、いまのきみはぼくのものだ、と私は思った。きみはぼくのものだし、パリのすべてがぼくのものだ。そしてぼくを独り占めにしているのは、このノートと鉛筆だ」


衝突する感情がかれを引き裂く。


「それからまた私は書きはじめ、わき目もふらずストーリーに没入した。いまはストーリーが勝手に進むのではなく、私がそれを書いていた。もう顔をあげることもなく、時間も忘れ、そこがどこなのかも忘れて、セント・ジェームズを注文することもなかった。セント・ジェームズにはもう飽きていて、それが意識にのぼることもなかった。やがてその短編を書きあげると、ひどく疲れていた。最後の一節を読み直し、顔をあげてあの娘を探したが、もう姿は消えていた。ちゃんとした男と出ていったのならいいな、と思った。が、なんとなく悲しかった」

カフェにいる女性
Illustrated by 坪本幸樹

ここにいたって、僕はほぼ反射的に、ボードレールを想った。詩集『悪の華』のもっとも有名なソネット(14行詩)のひとつである「通りすがりの女(ひと)に」を、だ。阿部良雄による訳を引く(阿部良雄訳『ボードレール全詩集Ⅰ』(ちくま文庫)。

 街路は私のまわりで、耳を聾(ろう)さんばかり、喚(わめ)いていた。

 丈高く、細(ほっ)そりと、正式の喪の装いに、厳かな苦痛を包み、

 ひとりの女が通りすぎた、褄(つま)とる片手も堂々と、

 裳裾(もすそ)の縁飾り、花模様をゆるやかに打ちふりながら、


 軽やかにも気高く、彫像のような脚をして。

 私はといえば、気のふれた男のように身をひきつらせ、

 嵐が芽生える鉛いろの空、彼女の眼の中に飲んだ、

 金縛りにする優しさと、命をうばう快楽とを。


 きらめく光……それから夜!……はかなく消えた美しい女(ひと)、

 その眼差しが、私をたちまち蘇(よみがえ)らせた女(ひと)よ、

 私はもはや、永遠の中でしか、きみに会わないのだろうか?


 違う場所で、ここから遥か遠く! もうおそい! おそらくは、もう決して!

 なぜなら、きみの遁(のが)れゆく先を私は知らず、私のゆく先をきみは知らぬ、

 おお、私が愛したであろうきみ、おお、そうと知っていたきみよ!

ボードレールは、この詩を1860年に発表した。ヘミングウェイがサン・ミシェル広場のカフェで、「気持ちが乱れ、平静ではいられなくなった」のは、文中でかれが明かしている当時住んでいたアパートメントの住所(カルディナル・ルモワーヌ通り74番地)から察するに、1922年か1923年であったはずだ。ボードレールが心をうばわれた「通りすがりの女(ひと)」とヘミングウェイが「いまのきみはぼくのものだ」とまで思いつめた「美しい娘」とのあいだには、60年の時の隔たりがある。けれど、フランスが生んだ最高の詩人(のひとり)とアメリカが生んだ最高の作家(のひとり)は、ともに、パリの雑踏のなかで、名も知らぬ美しいひとと運命の邂逅を果たし、それを文字にとどめた。


ボードレールを論じた1940年発表のエッセイ(「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」)のなかで、ドイツの思想家のヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)は、「通りすがりの女(ひと)に」に触れて、次のように述べている(『ベンヤミン・コレクションⅠ 近代の意味』ちくま学芸文庫)。


「喪のヴェールをかぶり、無言で雑踏のなかを流されてゆくがゆえに神秘のヴェールに包まれて、ひとりの見知らぬ女が詩人のまなざしをよぎる。このソネットが理解させようとしていることをひと口で言えばこうである――大都市住民を魅惑するあの女の形姿にとって、群衆はそのたんなる対立物、敵対要素では決してなく、この形姿は、群衆によってはじめて彼のもとへ運ばれてくるのである。大都市住民の恍惚は、最初のひと目による恋というよりは、最後のひと目による恋である。この詩では、心をうばわれる瞬間が同時に永遠の別れである」と。



短編を仕上げ、「あの娘」がすでに去ったことを悟ったヘミングウェイは、ポルトガルの牡蠣を一ダースとハーフ・カラフェの辛口の白ワインを注文する。


「牡蠣には濃厚な海の味わいに加えて微(かす)かに金属的な味わいがあったが、それを白ワインで洗い流すと、海の味わいと汁気に富んだ舌ざわりしか残らない。それを味わい、殻の一つ一つから冷たい汁をすすって、きりっとしたワインの味で洗い流しているうちに、あの脱力感が消えて気分がよくなった」


「あの脱力感」というのは、「短編を一つ書き終えると、きまってセックスをした後のような脱力感に襲われ、悲しみと喜びを共に味わうのが常だった」との、直前に言及していた「脱力感」のことである。「脱力感」と訳されている箇所は、原文では「empty」とか「empty feeling」とある。また、「気分がよくなった」のところの原文は、「began to be happy」だ。空っぽになった感情を、ワインがハッピーにした、のである。


ボードレールもまた、葡萄酒は、「それによって欲するがままに勇気や快活さをわがものにするところの甘美な液体」である、と「葡萄酒とハシッシュについて」でいっている(阿部良雄訳『ボードレール全詩集Ⅱ』(ちくま文庫)。


大都会の住民の孤独は、「最初のひと目による恋」を生み、おなじ孤独が、それを「最後のひと目による恋」に終わらせる。


そして、「一ぱいの葡萄酒」の歓びの深さは、孤独の深さに比例する。

連載タイトルについて

永井荷風がほぼ1年のフランス遊学を終えて、日本に帰る船にロンドンから乗ったのは1908(明治41)年6月のことであった。『ふらんす物語』として翌年に公刊されるはずが風俗を乱すとして発禁処分となり、後年(1915年)、日の目を見たこの本のなかに、「1908年6月船中にて」とのただし書きのある「巴里のわかれ」というタイトルの小文がある。


それは、日本に帰るべく、パリから列車に乗り、ディエップ港で船に乗り換えて英仏海峡を渡ってロンドンに投宿した荷風が、ヨーロッパで過ごす最後の晩の食事をとりに外出し、辻馬車の御者にたずねて、「フランス人の居留地」があるというオックスフォード・ストリートの、とある「汚い安料理屋」に入ったときの回想をつづったものである。そこは「懐しい三色の国旗がユニオンジャックの旗と差し違いに出してある料理屋」であった。荷風は書く。


「……入口に近く、よごれた白布(ナップ)を敷いたテーブルには三人の職人風の男、中央(まんなか)には商人らしい男が四五人、稍(すこし)離れた片隅には醜からぬ女が一人坐っていた。その服装、容貌、帽子の形、見すぼらしいけれども一目見て特徴の著しい『巴里女』(パリジエーヌ)である。自分はさながら砂漠の中に一帯の青林(せいりん)を見出したような気がした」と。


そうして、その「パリジエーヌ」が、「汚れた壁に添うた汚れたテーブルの上に片肘をつき、物思わし気に時々は吐息をもつくようで、手にした肉叉(にくさし)に料理をさしながら食べようともせず、蝿の糞で汚れた天井を現(うつつ)に仰いでいる様子は、どうしても異(ちが)った国から移植(うつしう)えた草花の色もあせやつれた風情である」として、荷風は、その「もの淋しく物哀れ」な様子に「漂白(さすらい)の悲しみを覚え」、こう述べる。


「あの女はどうしてあの美しいフランスを去ったのであろう。若しこれが巴里の街であるならば、同じ場末の安料理屋にしても、アブニューを蔽うマロニエの若葉の蔭、道端のテラスで、紫色に暮れて行く街の人通を眺め、何処からともなく聞えて来るヴィヨロンの調(しらべ)を聞きながら、陶然一ぱいの葡萄酒に酔おうものを……と今は他人(ひと)の身の上ならぬ過ぎし我が巴里の生活を思いはじめる」と。


このとき、荷風の想念をよぎった「一ぱいの葡萄酒」への万感のおもいは、また、歓びはいうまでもなきこととして、「漂白の悲しみ」をも縁なしとしない僕(たち)のおもいでもある。葡萄酒は飲まれるべきものばかりではない。それは(ぜひとも)語られるべきものでもある。そして、葡萄酒をめぐる語りは、願わくば、「一ぱいの葡萄酒」の美味を増すものであってほしい。そんなおもいをこめて、この連載のタイトルを「一ぱいの葡萄酒」とすることにした。(鈴木正文)

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