ワインを愛好する編集者・ジャーナリストの鈴木正文さんが、「一ぱいの葡萄酒」をテーマに寄せるエッセイ。第10回目は、ヘミングウェイの短編作品から「清潔で、とても明るいところ」を取り上げます。
※連載タイトルに込めた鈴木正文さんの想いはコラム下部にて掲載しております。
著:鈴木 正文
編集者・ジャーナリスト。1949年東京生まれ。慶応大学文学部中退。CM製作会社進行助手、海運造船業界紙記者などを経て二玄社に入社後、雑誌編集に携わり、『NAVI』(二玄社)、『ENGINE』(新潮社)、『GQ JAPAN』(コンデナスト・ジャパン)各誌の編集長を務めたのち2022年に独立した。著書に『◯✕まるくす』(二玄社)、『走れ、ヨコグルマ』(小学館文庫)、『スズキさんの生活と意見』(新潮社)など。坂本龍一の2冊の自伝である『音楽は自由にする』(新潮社)および『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(同)では、聞き手を務めた。
夜も更け、カフェの客はみな引き揚げて、ただ一人、電灯に照らされた木の葉の影のなかに、老人がすわっていた。日中は埃っぽい街路も、夜ともなると露が降りて埃がおさまってしまう。老人は夜遅くまですわっているのが好きだった。耳が聞こえないのだけれども、夜のこの時刻になると、周囲が静まり返ったことが彼にもはっきり感じとれるせいだった。老人がすこし酔っていることを、カフェの中にいる二人のウェイターは知っていた。いい客ではあるのだが、酔いすぎると金を払わずに帰ってしまう。それで二人は見張っているのだった。
ヘミングウェイの短編のなかでもとりわけ傑作の誉れが高く、作者みずからも「好きな作品」と語っていた「清潔で、とても明るいところ」(A Clean, Well-Lighted Place)と題されたストーリーの書き出しである(引用元は、高見浩訳『ヘミングウェイ全短編2』新潮文庫。とくに断りがない以後の引用もおなじ)。
「二人のウェイター」のうち、ひとりは若い妻帯者、もうひとりはもはや若くない独身者。時間は午前2時をまわったあたりの深夜。そんな時間にカフェがあいていて、しかも、いくぶん酔いがまわった老人(原文ではan old man、つまり、ひとりの老いた男)がただひとりの客としてグラスをまえにしている。屋外に突き出たテラス席のテーブルにひとり陣取るかれは、おまけに、耳が聴こえない。
場所はスペインのとある町。バルセロナやマドリードやセヴィリヤ(スペインでの標準的な発音は「セヴィージャ」らしい)のようなところだろうか。どこであろうと、フランスならパリのような大都会から南仏の小さな町にいたるまでのカフェがそうであるように、そこに行けばワインもシェリーやコニャックやカルヴァドスやウィスキーもあれば、コーヒー、紅茶、ショコラ・ショーその他の各種飲み物にくわえ、朝昼晩の食事にありつけるし、スイーツやケーキなどの甘い物まで注文できる。それがカフェ。なんでもござれの場所だ。東京には、しかし、そういうヨーロッパ風のカフェはあまりない。あっても、午前2時ごろに酔狂な老人が居着くことのできるところではない。
この短編小説が発表された1933年当時のスペインでは、ナチスばりのファシズム政党が胎動しはじめ、それにアナキズムやコミュニズムが対抗するという構図が政治的な背景としてあった。世界的な大恐慌の波を受けて深刻な農村不況が暗雲を投げかけ、労働者によるストライキも頻発していた。そんな物情騒然たる時代のなかでの、午前2時近辺の街角のカフェでの話である。
老人は、深夜にひとりで、なぜカフェにいるのか。ウェイターのうちのひとり、若くないほうが若いほうのウェイターにいうには、老人は先週、自殺を図っていた……。若いウェイターは、「どうして?」と訊く。
「絶望したのさ」
「どんなことで?」
「理由もなしに」
「どうしてわかるんだよ、理由がない、って?」
「金はたんまり持ってなさるからさ」
二人のウェイターはカフェの出入り口近くのテーブルに座り、戸外のそよ風に揺れる木の葉に電灯が当たって落ちる影のなかの老人を見ている。兵隊とかれに寄り添った若い女が通りかかり、街灯に照らされる。老人が、グラスでソーサー(受け皿)をたたく。飲んでいたブランデーのお代わりの合図だ。若いほうのウェイターがブランデーのボトルと陶器製の皿のソーサーを持ってテーブルに行く。グラスにあたらしい酒を注ぐたびに、あらたにグラスの下に受け皿を重ねる。客が何杯飲んだかを、ソーサーの枚数で数えるのだ。
この短編が、アメリカの月刊誌である『スクリブナーズ・マガジン』に発表された1933年、ヘミングウェイは34歳だった(その4年後の1937年に、かれは「NANA=北米新聞連合」の記者としてスペイン内戦の取材のために、現地スペインにおもむく)。ヨーロッパに戦争がはじまろうとしている予感とともにありながら、フロリダのキイウェストに買った家を拠点に、友人と釣り旅行をしたり、最初の妻のハドリーの親友でもあったふたり目の妻のポーリーンとケニヤでサファリに興じたりしている時期だった。
『スクリブナーズ・マガジン』は1929年の春から秋への6号にわたって、ヘミングウェイの『武器よさらば』を連載した雑誌であり、ヘミングウェイは作家としての最初の黄金時代を、このころ迎えてもいた。しかし、1928年、つまり前年の12月には、父親のクラランスが、銃による自殺を遂げていた。糖尿病と借金を苦にしてのことだったという。とはいえ、とにもかくにも、最初の妻であるハドリーと暮らし、最初の長編の『日はまた昇る』(1926年刊)を発表したパリ時代より経済的な余裕を手にしていた。しかし、内面生活をかたちづくる経験の地層は、二度の結婚と、その結果である母親がちがう計3人の子どもたちと、父親の自殺と、そうして作家的な成功と、というような経めぐりによって、より複雑に重なりあい、ねじれあっていく時期でもあった。この短編が書かれたのは、そんなころでもあった。
若いウェイターは毎晩のようにやってきては夜中の3時ごろまで「清潔で、とても明るい」テラス席でブランデーを飲む老人に辟易していた。いつまでも老人の相手なんぞをするのはやめて早く妻の待つベッドのなかに潜り込みたかった。いっぽうの、若くないほうのウェイターは、老人に同情的だった。お代わりの酒を注いで戻ってきた若いウェイターは年上のウェイターのもとに戻り、かれと会話する。
「なんで自殺しようとしたんだい、あの爺さん?」
「わからんよ、そんなこと」
「どうやって自殺を図ったんだい?」
「ロープで首を吊ったんだ」
「だれがロープを切って助けたんだい?」
「あの人の姪(めい)さ」
「どうして助けたりしたのかな?」
「あの人の魂が救われないと思ったんだろう」
老人はさらにもう一杯注文する。しかし、早く帰りたがっていたウェイターにサーヴィスを断られ、しかたなく席を立つ。ヘミングウェイの文を追おう。
老人は立ちあがった。受け皿をゆっくり数えると、革のコイン入れをポケットからとりだして勘定を払い、半ペセタのチップを置いた。
道路を遠ざかってゆく老人の背中を、ウェイターは眺めた。年老いた一人の男が、足をふらつかせながらも、威厳を保って歩いてゆく。
年上のウェイターはテーブルの片付けを終えて戻ってきた若いウェイターに、もっと飲ませてあげればよかったのにというと、若いウェイターは、どこかで酒を買って家で飲めばいいとか、一晩中やっている酒場がいくらでもあるのだからそういうところへいけばいいとか、もっともといえばもっともな返答をした。けれど、年上のウェイターは同意しない。「わかってないな。ここは清潔で、気持ちのいいカフェだ。照明もゆきとどいている。とても明るい上に、いまじゃ木の葉の投げる影もある」といって。ふたりは店のシャッターを閉め、「おやすみ」のあいさつをかわすと、それぞれの家路につく。
若いウェイターと別れた年上のウェイターはひとり、じぶんにいう。こんな時間には酒場(原文ではbar)しか飲めるところがないけれど、「バア(bar)のまえで、威厳を保って立っていることはできない」と。ここでのbarとは、バー・カウンターのことだ。カウンターのまえでは、威厳のある姿勢でなんか立っていられないというのである。高見浩の訳文では「こんな時間にあいているのは酒場くらいのものだが、しゃんとした物腰でその前に立つのも無理な話だ」とある。「しゃんとした物腰でその前に立つ」にあたる箇所の原文は「stand before a bar with dignity」だ。老人は80歳ぐらいであろうというのがふたりのウェイターの一致した推測であった。80歳の老人が威厳を失わない姿勢で気持ちよく酒を飲むには、バー・カウンターでは無理なのだ。「清潔で、とても明るい」「木の葉の投げる影」もあり、居住まいを正して座ることのできるカフェでなければならない、と老人同情派の独身者ウェイターはかんがえる。
帰る道すがら、この世のすべては虚無だ、という思いを反芻しながら年上のウェイターは歩いている。そして、とあるバーに立ち寄ってエスプレッソを飲み、「ここはとても明るくて気持ちがいいが、カウンターが磨いてないな」と、だれにともなくいう。「清潔で、とても明るいカフェは、こことはまったく別物である」というおもいをのせて。
34歳でしかなかったヘミングウェイは、年上のウェイターよりも若いほうのウェイターにより強い共感をもってもおかしくない年齢だった。けれどかれの共感は、「足をふらつかせながらも、威厳を保って歩いてゆく」自殺に失敗した死に損ないの老人のほうに、そしてその老人に共感するウェイターの側に寄せられた。そうして――。この短編の発表から28年ののち、ヘミングウェイは、父をなぞるような最後を遂げた。
「清潔で、とても明るい」(そういってよければ人生のように空虚な)カフェで、「一ぱいの葡萄酒」を飲んでみたくならないだろうか。
連載タイトルについて
永井荷風がほぼ1年のフランス遊学を終えて、日本に帰る船にロンドンから乗ったのは1908(明治41)年6月のことであった。『ふらんす物語』として翌年に公刊されるはずが風俗を乱すとして発禁処分となり、後年(1915年)、日の目を見たこの本のなかに、「1908年6月船中にて」とのただし書きのある「巴里のわかれ」というタイトルの小文がある。
それは、日本に帰るべく、パリから列車に乗り、ディエップ港で船に乗り換えて英仏海峡を渡ってロンドンに投宿した荷風が、ヨーロッパで過ごす最後の晩の食事をとりに外出し、辻馬車の御者にたずねて、「フランス人の居留地」があるというオックスフォード・ストリートの、とある「汚い安料理屋」に入ったときの回想をつづったものである。そこは「懐しい三色の国旗がユニオンジャックの旗と差し違いに出してある料理屋」であった。荷風は書く。
「……入口に近く、よごれた白布(ナップ)を敷いたテーブルには三人の職人風の男、中央(まんなか)には商人らしい男が四五人、稍(すこし)離れた片隅には醜からぬ女が一人坐っていた。その服装、容貌、帽子の形、見すぼらしいけれども一目見て特徴の著しい『巴里女』(パリジエーヌ)である。自分はさながら砂漠の中に一帯の青林(せいりん)を見出したような気がした」と。
そうして、その「パリジエーヌ」が、「汚れた壁に添うた汚れたテーブルの上に片肘をつき、物思わし気に時々は吐息をもつくようで、手にした肉叉(にくさし)に料理をさしながら食べようともせず、蝿の糞で汚れた天井を現(うつつ)に仰いでいる様子は、どうしても異(ちが)った国から移植(うつしう)えた草花の色もあせやつれた風情である」として、荷風は、その「もの淋しく物哀れ」な様子に「漂白(さすらい)の悲しみを覚え」、こう述べる。
「あの女はどうしてあの美しいフランスを去ったのであろう。若しこれが巴里の街であるならば、同じ場末の安料理屋にしても、アブニューを蔽うマロニエの若葉の蔭、道端のテラスで、紫色に暮れて行く街の人通を眺め、何処からともなく聞えて来るヴィヨロンの調(しらべ)を聞きながら、陶然一ぱいの葡萄酒に酔おうものを……と今は他人(ひと)の身の上ならぬ過ぎし我が巴里の生活を思いはじめる」と。
このとき、荷風の想念をよぎった「一ぱいの葡萄酒」への万感のおもいは、また、歓びはいうまでもなきこととして、「漂白の悲しみ」をも縁なしとしない僕(たち)のおもいでもある。葡萄酒は飲まれるべきものばかりではない。それは(ぜひとも)語られるべきものでもある。そして、葡萄酒をめぐる語りは、願わくば、「一ぱいの葡萄酒」の美味を増すものであってほしい。そんなおもいをこめて、この連載のタイトルを「一ぱいの葡萄酒」とすることにした。(鈴木正文)