ワインを愛好する編集者・ジャーナリストの鈴木正文さんが、「一ぱいの葡萄酒」をテーマに寄せるエッセイ。第11回目は、パリのセーヌ川にまつわるお話を取り上げます。
※連載タイトルに込めた鈴木正文さんの想いはコラム下部にて掲載しております。
著:鈴木 正文
編集者・ジャーナリスト。1949年東京生まれ。慶応大学文学部中退。CM製作会社進行助手、海運造船業界紙記者などを経て二玄社に入社後、雑誌編集に携わり、『NAVI』(二玄社)、『ENGINE』(新潮社)、『GQ JAPAN』(コンデナスト・ジャパン)各誌の編集長を務めたのち2022年に独立した。著書に『◯✕まるくす』(二玄社)、『走れ、ヨコグルマ』(小学館文庫)、『スズキさんの生活と意見』(新潮社)など。坂本龍一の2冊の自伝である『音楽は自由にする』(新潮社)および『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(同)では、聞き手を務めた。
いきなりのおことわりから今回の原稿をはじめるのは心苦しいかぎりだけれど、7月26日にパリで開会式がおこなわれた例の世界的なスポーツ競技大会に関連して、「オリ◯◯ック」(◯のところには各自カタカナを入れてください)ということばは、僕の書くこの小文のごときものであってさえ、そのむやみな使用は許されないのであるという。というのも、この「オリ◯◯ック」ということばじたいが「知的財産権」による保護の対象であるためだそうだ。そういうわけで、ここではこの知財案件の競技大会に言及するさいには、「4年に一度開かれる知財案件としての世界的スポーツ競技大会」というややこしい表現をつかうことにするので、読者のお許しをいただきたい。
さて、このほどパリで開かれた「4年に一度開かれる知財案件としての世界的スポーツ競技大会」の開会式は、過去32回の夏季の同種大会史上はじめて、スタジアムの外で、それもセーヌ川を舞台におこなわれると知って、鹿島茂さんの『文学的パリガイド』(NHK出版)のなかの一節が、まっさきに頭にうかんだ。
鹿島さんは書いている。
「パリからエッフェル塔がなくなっても、ノートル=ダム大聖堂がなくなっても、パリはパリであり続けるだろうが、ただ一つ、これをなくしてしまったら、パリがパリでなくなるものがある。それがセーヌ川だ。セーヌ川こそはパリと不可分で、パリのすべてがセーヌ川から生まれて来ているといっても言いすぎではない」と。
「NHKテレビ フランス語会話」のテキストブック上で2002年4月から2004年3月にかけての2年間、24回にわたって連載された記事をまとめたこの本が出たのは、いまから20年前の2004年。引用したのは、24話中の「セーヌ川あるいはアナトール・フランス」というタイトルの章の書き出しの部分である。エッフェル塔もノートル・ダムもなくても、セーヌ川さえあればパリは困らない、というのである。大会の主催者も、おなじようにかんがえたのだろうか――。
鹿島さんのこの本は、鹿島さんが選んだパリの24の観光スポットを、その地にゆかりのある24人の文学者と結びつけた24篇のエッセイから成っていて、「セーヌ川あるいはアナトール・フランス」のほかには、たとえば、「エッフェル塔あるいはアポリネール」とか「ルーヴルあるいはネルヴァル」、「シャン=ゼリゼあるいはプルースト」、「ノートル=ダム大聖堂あるいはユゴー」、「パレ・ロワイヤルあるいはバルザック」といった魅力的なタイトルが並ぶ。どの話もハズレなしにおもしろい。たとえば、「モンパルナスあるいはボーヴォワール」の章では、第二次大戦が終わろうとするころのモンパルナスの情景を語るのに、「私たちのアパルトマンの下に、ラ・ロトンドというやかましいカフェが、いつもダルデル氏がドミノをやっているのんびりしたカフェ・ドームの向かいに、最近開店した。化粧をした断髪の女たちや、妙な服装の男たちがそこに出入りしていた」というボーヴォワールの『娘時代』(朝吹登水子役・中央公論社)のなかの文章が引かれたりする。一般のガイドブックには出てこない種類の、ある種、文学的で知的でもある風俗への好奇心がそそられるインサイダーならではの証言が紹介されていて、それが魅力のひとつだ。
セーヌ川の章では、1844年にパリに生まれたアナトール・フランスの、セーヌの流れを毎日見て過ごした幸福な幼年時代の記憶が紹介される。セーヌ河岸に並んだブキニストと呼ばれる古本やポスターやその他の「過去の亡霊」たちを並べた屋台の連なりをぶらついて、古本漁りをした平和な楽しみに触れ、鹿島さんは、「アナトール・フランスは断言する。セーヌ川が真に栄光あるフランスとパリの象徴である」と書く。ブキニストたちは、第二帝政期のセーヌ県知事オスマン男爵が推進したパリ大改造の煽りで一掃されそうになった危機も、ナチス・ドイツによるパリ占領期ものりこえてこんにちも健在で、今回の「知財案件としての4年に一度開かれる世界的スポーツ競技大会」をむかえた。
セーヌ川からの連想で、思い出した本がもう一冊ある。岩波文庫の『聖なる酔っぱらいの伝説 他四篇』(ヨーゼフ・ロート作 池内紀訳)がそれで、同書のカバーの「そで」に書かれた表題作と作者についての紹介によると、これは、「ある春の宵、セーヌの橋の下で、紳士が飲んだくれの宿なしに二百フランを恵む――。ヨーロッパ辺境に生まれ、パリに客死した放浪のユダヤ人作家ロート(1894-1939)が遺した、とっておきの大人の寓話」である。
ロートはオーストリアの作家とされているけれど、1894年にかれが生まれたその地は、オーストリア=ハンガリー帝国領のガリツィア地方のブロディーなる町で、そこは、現在はウクライナ共和国に属している。この本の訳者でドイツ文学者の池内紀氏の「解説」によれば、公用語はドイツ語でウィーン文化圏に属していたけれど、ポ―ランド人、ウクライナ人が多数を占め、オーストリア人やドイツ人は少数派だった。そして、ドイツ語のほかポーランド語やウクライナ語、ロシア語、さらには東欧ユダヤ語ともいわれたイディッシュ語も話される多民族・多言語地域であったという。池内氏は、「そのなかでドイツ系ユダヤ人は微妙な立場にあった。多数派のポーランド人、ウクライナ人からすれば、自分たちを支配する権力側にいる。たしかにドイツ語圏の一員だが、ドイツ人、オーストリア人からは陰に陽に区別され、どちらの側からも正当な一員とはみなされない。さらに東欧一円で、ことあるごとに燃え上がる『ポグロム(ユダヤ人迫害)』にさらされていた。のちのヨーゼフ・ロートの放浪は、生まれた町にすでに運命づけられていたといえるのだ」と述べる。作者ロートは、生まれながらの「故郷喪失者」であった。
ロートがウィーン大学でドイツ文学を学びはじめた1913年の翌年に第一次大戦が勃発する。志願してオーストリア陸軍の一員として前線でたたかったとされるが、大戦終結とともにオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、その後ロートは、ベルリンをベースにしつつ『フランクフルト新聞』の特派員としてヨーロッパ各地を飛びまわりながら作家としての活動をはじめ、すぐに注目されるようになった。「ホテルの机、駅の待合室、カフェのテーブル、どこであれ美しい書体でつづり、澄んだ水のような文体をもっていた」と、池内氏はいう。
そして1932年、ナチ党が総選挙で第一党に躍進し、翌1933年1月に政権を奪取すると、ロートはただちにベルリンを離れ、まずはパリへゆき、さらにスペイン、ウィーンを経てふたたびパリに舞い戻ると、リュクサンブール公園のすぐ北隣りの安宿に落ち着いて亡命者生活を送った。
「聖なる酔っぱらいの伝説」の主人公のアンドレアスはポーランドで父親とおなじく炭鉱夫をしていた。フランスに来たのも炭鉱で働くためで、炭鉱で働くうち、国が同じある夫妻のもとに下宿し、そこの奥さんが好きになった。ある日、その奥さんが夫に殴り殺されそうになり、アンドレアスはその夫を殴り殺し、2年間服役したのち、刑務所を出ると、セーヌ川の橋の下をねぐらにするその日暮らしがはじまり、かれは「聖なる酔っぱらい」となったのである――。
そのかれが、いかなる神の気まぐれか、ある春宵、セーヌのほとりで200フランを恵んでくれた紳士と出会い、それをきっかけに、奇蹟のような幸運に次々と遭遇する。アンドレアスは、200フランを受け取ったとき、この200フランを返せるようになったら、それをパティニョールの聖テレーズ像のあるサント・マリー礼拝堂の司祭に、ミサのあとにでも寄付してほしいと頼まれていたので、日曜のミサの時間を見計らって幾度もそこにいく。けれど、酔っぱらいで懐もあたたかくなったアンドレアスは、毎度、教会の筋向かいにある酒場に立ち寄ってミサが終わるのを待つあいだにペルノーの盃をかさね、また、かつての刑務所行きの原因となった女性や少年時代の友人に行きあったりするなどの「奇蹟」も起きて散財してしまい、ついには聖テレーズさまへの寄進を果たせないままに息絶えてしまう。
この寓話的な物語によって作者がなにを意味したかの詮索はここではひとまず脇におくとして、もし、アンドレアスがテレーズさまに首尾よく200フランを返すことができていたとしたらどうだろうか、とかんがえてみる。それでも、物語は成り立ったであろうか、と。
アンドレアスがテレーズさまに渡すべきものを渡し、テレーズさまがそれをこころよく受け取ったとしたら、そんなにハッピーなことはなかろうとおもう。けれど、そんなふうにすべてがすっきりとまるくおさまるとしたら、もはや「聖なる酔っぱらい」のアンドレアスの出る幕はなくなるであろう、おそらくは。
ロートはこの「聖なる酔っぱらいの伝説」を書いた1939年の5月、住んでいたパリの安ホテルの玄関を出たところで倒れ、その4日後に死去した。44歳であった。ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次大戦が勃発したのは、それから数カ月のちの1939年9月1日のことだった。
池内紀氏は、死の前年に撮られたロートの写真に触れて書いている。
「(ロートは)一八九四年の生まれだから、まだ四十代の前半だが、写真ではどう見ても六十代である。亡命して五年目。三界に身の置きどころのない亡命者として苦労がたえなかった。さらにロートに特有の事情があった。とりわけ深酒が健康をむしばんでいた。酒量をへらすよう友人に忠告されたとき、ロートは手紙で答えている。いかにも酒は命をちぢめるかもしれないが、少なくとも眼前の死は遠ざけてくれる。――『眼前の死』が自殺を意味していたことはあきらかだ」と。
そうだったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。けれど、「聖なる酔っぱらい」は、また、ロートじしんでもあった。そして、たしかなのは、セーヌ川=パリにたどりついた故郷喪失者には、酔っぱらわなければならない理由があったことだ。
今回の大会には1万人をこえるアスリートが世界中から参加したらしい。そして、いうまでもないことだけれど、すべてが勝者の栄冠をつかむ(つかんだ)わけではない。圧倒的な大多数は一敗地にまみれる(まみれた)。いずれにせよ、酔っ払う理由が、そうして無数に生まれる(生まれた)であろう。
敗者がいて勝者がいて、そうして「一ぱいの葡萄酒」がある。
連載タイトルについて
永井荷風がほぼ1年のフランス遊学を終えて、日本に帰る船にロンドンから乗ったのは1908(明治41)年6月のことであった。『ふらんす物語』として翌年に公刊されるはずが風俗を乱すとして発禁処分となり、後年(1915年)、日の目を見たこの本のなかに、「1908年6月船中にて」とのただし書きのある「巴里のわかれ」というタイトルの小文がある。
それは、日本に帰るべく、パリから列車に乗り、ディエップ港で船に乗り換えて英仏海峡を渡ってロンドンに投宿した荷風が、ヨーロッパで過ごす最後の晩の食事をとりに外出し、辻馬車の御者にたずねて、「フランス人の居留地」があるというオックスフォード・ストリートの、とある「汚い安料理屋」に入ったときの回想をつづったものである。そこは「懐しい三色の国旗がユニオンジャックの旗と差し違いに出してある料理屋」であった。荷風は書く。
「……入口に近く、よごれた白布(ナップ)を敷いたテーブルには三人の職人風の男、中央(まんなか)には商人らしい男が四五人、稍(すこし)離れた片隅には醜からぬ女が一人坐っていた。その服装、容貌、帽子の形、見すぼらしいけれども一目見て特徴の著しい『巴里女』(パリジエーヌ)である。自分はさながら砂漠の中に一帯の青林(せいりん)を見出したような気がした」と。
そうして、その「パリジエーヌ」が、「汚れた壁に添うた汚れたテーブルの上に片肘をつき、物思わし気に時々は吐息をもつくようで、手にした肉叉(にくさし)に料理をさしながら食べようともせず、蝿の糞で汚れた天井を現(うつつ)に仰いでいる様子は、どうしても異(ちが)った国から移植(うつしう)えた草花の色もあせやつれた風情である」として、荷風は、その「もの淋しく物哀れ」な様子に「漂白(さすらい)の悲しみを覚え」、こう述べる。
「あの女はどうしてあの美しいフランスを去ったのであろう。若しこれが巴里の街であるならば、同じ場末の安料理屋にしても、アブニューを蔽うマロニエの若葉の蔭、道端のテラスで、紫色に暮れて行く街の人通を眺め、何処からともなく聞えて来るヴィヨロンの調(しらべ)を聞きながら、陶然一ぱいの葡萄酒に酔おうものを……と今は他人(ひと)の身の上ならぬ過ぎし我が巴里の生活を思いはじめる」と。
このとき、荷風の想念をよぎった「一ぱいの葡萄酒」への万感のおもいは、また、歓びはいうまでもなきこととして、「漂白の悲しみ」をも縁なしとしない僕(たち)のおもいでもある。葡萄酒は飲まれるべきものばかりではない。それは(ぜひとも)語られるべきものでもある。そして、葡萄酒をめぐる語りは、願わくば、「一ぱいの葡萄酒」の美味を増すものであってほしい。そんなおもいをこめて、この連載のタイトルを「一ぱいの葡萄酒」とすることにした。(鈴木正文)