作家・料理家。服部栄養専門学校卒業後、料理教室勤務や出張料理人などを経て、2005年『さよならアメリカ』で群像新人文学賞を受賞し、作家デビュー。作家として作品を発表する一方、料理家としても活動し、メニュー開発なども手がける。 主な著書 『スープの国のお姫様』(小学館) 『おいしいものには理由がある』(角川書店) 『最高のおにぎりの作り方』(KADOKAWA) 『ぼくのおいしいは3でつくる』(辰巳出版)
vol.3はこちら
この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
「食前酒ってなにを頼むのがいいんですか?」カウンターの奥に座っていた女性が店主に尋ねる。「泡以外で」
彼女は待ち合わせ相手を待っている。これからレストランに行くらしく、相手から遅れる、という連絡があったばかりだ。早い時間だから他にお客はいない。
「白ワインがお好きなら、カシスリキュールで割ったキールも有名ですが……でも一杯目にロゼや白ワインを頼んでもいいんですよ。ルールなんてないので、お好きなものを頼めばいいんです」
「へぇ」と彼女は頷く。「良かった。私、赤ワインが好きなんで、最初から頼むことも多かったんですけど、おかしくなかったんですね」
「大丈夫です。どのお店でも快く用意してくれます……スパークリングワインはお苦手ですか?」
店主がグラスに赤ワインを注ぎ、カウンターに置いた。
「嫌いじゃないんですけど、食事前だとお腹がいっぱいになっちゃう気がして……私、シャンパーニュのコルクは集めているんですよ。食事をしたお店でもらって、人形をつくるんです」
ほう、と店主は思った。
会話が途切れ、深く息を吐いたように静かな時間が流れる。彼女はワインを口に運んだ。
「この後、どちらに?」
「ここから十分くらい歩いたところのスペイン料理のお店です。できたばかりなんですけど、知りません? 私、百人と一緒に食事をしようと思っていて。今回の人で七十四人目」
店主は首をかしげる。七十四人目?
「なんとなく三十五歳までに結婚しようと思っていたんですけど、考えてみたら自分は他人のことを知らないなって思って……マッチングアプリと結婚相談所に登録して、とりあえず百人と一緒に食事をしてみようと決めたんです。お陰でレストランだけは詳しくなりました。まだ、人のことはよくわかりませんけど」
店主は曖昧に頷いた。
「このあいだ東銀座のビストロで、すごくおいしいラム肉と赤ワインを食べたんです。ラム肉にスパイスをまぶして焼いただけのシンプルな料理だったんですけど、すっごく赤ワインがおいしくて。それがソース代わりという感じ」
彼女はそう言って、眉をひそめた。
「でも、一緒に食べていた相手が最悪でした。好きなように食べたいじゃないですか。ラムチョップの骨を手で持って、周りの肉をかじっていたら『フィンガーボウルが出ていないし、手で食べるのは行儀悪いんじゃない』って言うんです。ああいうのって、手で食べてもいいんですよね?」
「もちろん」店主は笑った。「お店の人が手を拭くためのおしぼりなり用意してくれると思います」
「ですよね。その時は聞き流したんですけど、家に帰ってからなんだか腹が立ってきちゃって。つくりかけのコルクの人形があったんですけど、捨てちゃいました」
彼女はカウンターの上で指で弾くジェスチャーをした。
「その人、帰り道に階段で転んで捻挫して、しばらく苦労していたって人づてに聞きました。人形のせいではないと思いますけど」
扉が開く音がして、二人は視線を向けた。羊のように善良そうな顔をした背広姿の若い男はカウンターに座っていた彼女に「遅れてごめん」と謝った。迷える羊よ、と店主は祈った。彼らにささやかな喜びが訪れますように。
骨付きラムロース肉のスパイス焼き
【材料】 (2人分)
・骨付きラムロース肉2本(200g程度)
・塩 小さじ1/4
・ガラムマサラ 小さじ1/4
・にんにく 1片(皮を剥く)
・ローズマリー あれば
【作り方】
1. ラムチョップは30分ほど室温に戻しておく。塩とガラムマサラをあわせたものをまぶし、脂身を下にしてフライパンに置き、中火にかける。
2. 1分ほど焼いて焼色がついたら弱火に落とし、にんにくとローズマリーを加え、片面を2分30秒焼く。
3. 裏返して2分焼く。火を止めてもう一度裏返し、フライパンの上で2分休ませ、皿に盛り付ける。
文・写真=樋口 直哉
『エノテカタイムス』は全国のワインショップ・エノテカとエノテカ・オンラインにて配布中です。ぜひお手に取ってご覧ください。 ※一部対象外の店舗がございます。 ※エノテカ・オンラインでは、ご購入画面よりお選びただくことでワインとご一緒に『エノテカタイムス』をお届けします。 ※数に限りがございます。期間中でも配布が終了している場合がございます、予めご了承ください。