あのひとの特別な日に飲む「ハレ」ワイン、日常に馴染む「ケ」ワイン。ワイン好きで知られるあのひとのワインの思い出を語ってもらいました。
作家。2007年『雪よ林檎の香のごとく』でデビュー。『イエスかノーか半分か』などの人気シリーズを手がける。21年『スモールワールズ』で吉川英治文学新人賞を受賞し、本屋大賞第3位、直木賞候補に。22年『光のとこにいてね』で島清恋愛文学賞受賞、本屋大賞3位、キノベス第2位。24年『ツミデミック』で第171回直木賞を受賞。他の著書に『うたかたモザイク』『恋とか愛とかやさしさなら』など。
基本的にお酒は何でも好き、楽しく酔えれば細かいことはいいじゃないの、というスタンスです。家では晩酌に缶ビール一本程度、外でワインを嗜む時は、嬉しいことがあった日はまずシャンパーニュで乾杯し、あとは「辛口の白」「軽めの赤」とリクエストしたり、ソムリエの方にペアリングをお願いしたりとプロに任せっきりで幾星霜。ワインに対する知識も造詣もからっきしなわたしが、身の程知らずにもこのエッセイをお引き受けしようと思ったのは、エノテカさんにご恩を感じているからです。
もう、十五年近く前になるでしょうか。勤め先の上司が早期退職するというので、ささやかなランチ送別会を計画しました。そこで何かお餞別をと考えたのですが、上司はいわゆる「実家が太い」お坊ちゃんで、ブルネロクチネリのニットをさらりと着こなし、パリ駐在経験まであるという、わたしにとっては住む世界の違う方でした。ほかのメンバーと相談した結果、消え物がいいだろう、とシャンパーニュに決定。わたしにお使いの任務が託されたのですが、当然具体的な銘柄に心当たりがあるわけもなく、慌ててエノテカさんのショップに駆け込んだ次第です。
新しい門出の贈り物にふさわしいシャンパーニュ、お値段は三万円以内、ワインに詳しい人でも「おっ」と思ってもらえるような……などと図々しい希望をスタッフの方は笑顔で頷きながら聞き、「こちらはいかがでしょう」と一本のシャンパーニュを薦めてくださいました。素人に否やのあるはずもなく即決し、送別会の日、きれいにラッピングしていただいたシャンパーニュをお渡しすると、上司はさっそく包装を剥がしてボトルを眺め、それから「ありがとうなあ」としみじみつぶやきました。
「俺、わかるで。これ、ちゃんと選んでくれたんやなあ」
彼が涙ぐんで目尻を拭ったのには驚きました。普段は飄々とクールなタイプで、何かに感激するところなんて見たことがなかったのに、最後の最後でこんな表情を覗かせてくれるとは。ほっと胸を撫で下ろすとともに、この感謝は自分が受け取るべきものじゃないのになあ、とすこし申し訳なかったのを覚えています。スタッフの方が、プロの目でふさわしい一本を選んでくれたから。そして、プロとしての目を養うために、きっとたくさん勉強されてきたに違いありません。お酒のように時間をかけ、熟成された美味しい知識のひとしずくで、ちいさな魔法をかけてくれた。
舌と同様に大雑把なわたしの脳みそは、あの時のスタッフの方のお名前も、シャンパーニュの銘柄も忘れてしまったのですが、感謝の気持ちだけは今も温かなまま胸に留まっています。エノテカさん、その節は本当にありがとうございました。また、ハレの日のワインを誰かに贈る時にはお世話になると思いますので、よろしくお願いいたします。
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