1976年、アメリカ建国200周年を記念したパリでの試飲会で、カリフォルニアの無名ワインがボルドーの超一流赤ワインとブルゴーニュの名門白ワインを撃破しました。
通称「パリスの審判」の白ワイン部門で1位になったのがシャトー・モンテレーナ。世界最多となる1億5000万点以上の所蔵品を誇るアメリカのスミソニアン博物館で展示しているワインが、この時に金メダルとなったシャトー・モンテレーナ1973年と、赤ワイン部門で1位になったスタグスリープ・ワインセラーズ1973年です。
ワインの本場、フランスに勝ったアメリカは勢いに乗り、1980年、レークプラシッドでの冬季五輪アイスホッケーにおいて、ソ連の常勝軍団をアメリカのアマチュアチームが撃破し「氷上の奇跡」を起こします。
今回のコラムでは、シャトー・モンテレーナのオーナー、ジム・バレットと醸造責任者のマイク・ガーギッジの2人に光を当て「シャトー・モンテレーナの奇跡」までの道のりを解説します。
『プロジェクトX』のように一生懸命に働いて苦労の末に成功する「涙のストーリー」が満載です。
目次
燃え尽きたロサンゼルスの弁護士、ジム・バレット
オーナーのジム・バレット(1926年-2013年)は、駆逐艦や潜水艦に士官として乗船して勤務したのち、弁護士を経て、ワイナリーを立ち上げた異色の経歴の持ち主です(というより、カリフォルニアのワイン生産者は、リッジのポール・ドレーパーをはじめ、波乱万丈の経歴の人物ばかり)。
バレットは、海軍を除隊後、ロサンゼルスに自身の法律事務所を立ち上げ、最盛期には弁護士27人、事務員70人を抱える大所帯となります。弁護士として大成功するほど、不毛な訴訟に明け暮れる法律家としての人生に情熱が持てなくなり、自然を相手にする仕事をしたいと思うようになりました。
「燃え尽きた弁護士」が興味を持ったのがワイン造りです。
1年半かけて北カリフォルニアで畑を探したところ、不動産屋が案内してくれたのが没落して荒れ放題のシャトー・モンテレーナでした。
弁護士時代、自家用双発機のパイパー・アズテックを操縦し、ソノマにあるサンタローザ空港へ行き来していた時、眼下にこのワイナリーの畑を見ていました。上空を飛行するたびに、素晴らしい畑だと感じていて、愛機、レオナルド号がこのワイナリーを引き合わせてくれたとバレットは感動したそうです。
廃屋状態のワイナリーの建物は、演劇の舞台装置みたいに表面だけ立派で、皮一枚むこうは安普請の家屋でした(モンテレーナのワインのラベルを見ても、これが分かります)。
ワイナリーの裏には大きな池があり、クルーザー船ほど大きい赤い中国風の木の船が浮かんでいます。要は、「悪趣味」の塊だったのですが、バレットは気になりません。
土地は60haあり、40haが畑です。ブドウを新しく植え替えて、ラフィットやマルゴーに匹敵するワインを造ろう、醸造技師も雇わねばとバレットの心が躍ります。
苦労だらけのクロアチア人、マイク・ガーギッジ
醸造技師のマイク・ガーギッジは、1923年、クロアチアに生まれました(日本では、関東大震災が起きた年です)。
クロアチアは、1945年からチトー大統領が恐怖政治で統治した多民族国家、ユーゴスラビアの一部です(チトー大統領の死後、大統領の抑えがなくなって、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアに分裂します)。
ワイン造りに興味があったガーギッジは、22歳の時、首都にあるザグレブ大学の醸造学部に入学するため、登録日の朝の2時に起きます。路面電車が動く前に徒歩で大学へ向かい、既に列を作っている2人女性の次に並び、3番目になったガーギッジは、定員12名の醸造学部に入学を許可されました(「先着12名様が入学できます」なんて、コンサートのチケットの販売みたいですね)。
半年のカリフォルニアでの研究休暇から戻った醸造学部の教授が、授業で学生にカリフォルニアでの農業を紹介しました。
「水がないと砂漠だけれど、水があると楽園だ」「どの農家もトラクターを持っていて、5年毎に買い替えるんだよ」と聞いて、31歳になったガーギッジの夢が膨らみ、「必ず、カリフォルニアへ行って、自分のワイナリーを持つぞ」と心に決めます。
すぐさま、西ドイツでの2ヶ月の短期研究留学のため、4ヶ月有効のパスポートを取得し、闇市で換金した32ドル(現在の貨幣価値で310ドル)を靴の二重底に隠し、準備完了。西ドイツへ留学して、パスポートが切れてもそのまま滞在し、難民状態になります。
アメリカでの就労ビザを取得しようとしますが、うまくいきません。カナダへ入国すればアメリカへ入れると聞き、ドイツから大西洋を船で渡ってカナダのノバスコシアに着き、そこから大陸横断列車でバンクーバーへ向かいました。
ドイツから乗船する前に靴屋で二重底の32ドルを取り出してもらい、大陸列車の食堂車のメニューの中で、1番安い75セント(現在の7ドル25セント)の食べ物を指さしてオーダーしたところ、トーストが1枚出てきただけという苦い経験をしました。以降、停車した駅の売店で食べ物を調達します。
バンクーバーでは最初の1年、皿洗いやウェイターをし、翌年、化学分析の技術が認められて製紙工場での品質管理を任されます。カリフォルニアでワイナリーを立ち上げる気持ちは熱くなるばかり。ナパ・バレーの新聞に求職記事を載せ、スーヴェラン・セラーズで採用されることになりました。
就労ビザを取得し、バンクーバーから大陸横断バスを乗り継いで、夢見ていたナパへ到着します。
この時、ガーギッジは既に35歳。日本なら就職して10年以上経ったベテラン社員で、係長や課長になっていますが、ガーギッジはまだワイナリーに就職すらできていません。
スーヴェラン・セラーズでは、小規模生産者らしく、きちんと丁寧にワインを造ることを叩き込まれますが、オーナーと折り合いが悪くて半年で辞職。以降、クリスチャン・ブラザーズ、名門、ボーリュー・ヴィンヤードで経験を積みます。
ボーリューで醸造責任者になることを夢見ていましたが、現在の醸造技師の息子が昇格することになり、ガーギッジは新しいキャリアを求めて、ロバート・モンダヴィのワイナリーに就職します。ガーギッジは45歳でした。
当時のナパ最高のワイナリーが、モンダヴィ・ワイナリーでしたが、規模が大きすぎてガーギッジには管理しきれません。しかも、雇われ醸造者の仕事ばかりで、自分のワイナリー立ち上げに繋がりません。
そんな中、シャトー・モンテレーナから話が来ます。ガーギッジが49歳の時でした。
ジム・バレット + マイク・ガーギッジ = シャトー・モンテレーナ
燃え尽きた弁護士、ジム・バレットがワインに情熱を見つけ、畑も見つけました。次は醸造技師です。
シャトー・モンテレーナの隣にあるブラインド製造会社の事務所で、バレットはガーギッジに会います。
ガーギッジは「私は、高品質のカベルネ・ソーヴィニヨンとシャルドネを造った経験があります」と言い、バレットは「私は、世界レベルのカベルネ・ソーヴィニヨンを造りたい」と述べ、2人の思惑が一致。
しかも、バレットは「ウチに来てくれたら、毎年、給料の他にワイナリーの所有権を1%譲渡する」という好条件も提示しました。自分のワイナリーを持ちたいとのガーギッジの夢に1歩近づきます。
バレットが購入してから、シャトー・モンテレーナは廃屋のままで、何の手も入っていません。生産責任者になったガーギッジは、バレットからワイナリーの設計図と事業計画を作るように言われます。
ガーギッジが出したのは「5カ年計画」で、畑のブドウの樹を引き抜き、カベルネ・ソーヴィニヨンを植え、安定的に収穫して瓶詰め・出荷するには最低、5年かかるというものでした。これを見たバレットが、「ブドウを潰す前に、ワイナリーが潰れる」と言い、何か方法を考えるようガーギッジに命じます。
ガーギッジの案は、白ワインの方が早くできるので、ブドウを買って白ワインを造って資金を貯め、資金繰りがうまく行ったらカベルネ・ソーヴィニヨンを植えるというものでした。
シャトー・モンテレーナの初出荷が、購入したブドウで造ったリースリング1972年で、シャルドネ1972年が続きました。
当時、サンディエゴでワイン専門家によるブラインドの試飲会があり、1本17ドル50セント(現在の113ドル75セント)のバタール・モンラッシェ1972年と、1本6ドル50セント(同42ドル25セント)のシャトー・モンテレーナのシャルドネ1972年が対決し、3対1でモンテレーナが勝ったそうです。
シャルドネの大事件
「パリスの審判」に出場したのはシャトー・モンテレーナのシャルドネ1973年です。イギリスのワイン評論家が密かに注目していたこのワインに大事件が持ち上がります。
1975年、ボトルに詰めた1週間後、シャルドネが茶色に変色していたのです。これは売り物にならないと判断したバレットは、損害を最小限にするため、急遽、2,200ケースものシャルドネ1973年を1本2ドル(現在の10ドル10セント)の捨て値で卸す契約をします。
その数週間後、ワイナリーでバレットが自分でチキンを料理し、シャルドネ1973を合わせようとコルクを抜いたところ、ワインは透明に戻っています。これなら高値で売れるのですが、問題は1本2ドルで卸すというダレル・コルティとの契約をどう破棄するか。
バレットは先方に電報を打ち、「24時間以内に入金がない場合は契約を破棄する」と通告します。結局、入金はなく、バレットは透明なシャルドネを高値で売ることができました。
バレットには、人生で最も長い24時間だったでしょうが、相手側のコルティは、「ワインを安く買ってほしいとのオファーはきたけれど、電報のことは知らないし、細かいことは覚えていない」と買う気はなかったようでした。
この茶色への変色は、極端にワインを酸素に触れさせない場合に発生する現象だそうで、「ボトル・ショック」と呼ぶそうです。
1976年の「パリスの審判」
貴族階級の裕福なイギリス人、スティーヴン・スパリュアが1976年5月24日にパリのインターコンチネンタル・ホテルで開催した歴史的な試飲会が「パリスの審判」です。
この試飲会では、白ワイン部門でシャトー・モンテレーナ シャルドネ1973年がブルゴーニュの名門を抑えて1位に、また、赤ワインでは、同じカリフォルニアのスタグス・リープが僅差で1位となり、フランス以外の世界中が驚きます。
フランスでは、すべてのマスコミがこの試飲会を無視したため、3ヶ月近く話題になりませんでした。最初に報じたのはル・フィガロ紙で8月18日です。
この試飲会の詳細、および、その後の遺恨試合は、本コラムの「ワイン史を変えた!『パリスの審判』とは?」をご覧ください。
この予想外の勝利を記念して、スミソニアン博物館にシャトー・モンテレーナ シャルドネ1973年を飾っています。赤ワイン部門で1位になったスタグス・リープ・ワイン・セラーズ1973年のボトルも、隣に陳列してあります。
なお、スタグス・リープ・ワイナリーというよく似た名前の生産者は「パリスの審判」とは別物です。2020年の第9回全日本最優秀ソムリエコンクールで、「パリスの審判で1位になった赤ワインは?」と口頭試問で聞かれ、「スタグス・リープ」と答えて減点された選手がいました。
その後のマイク・ガーギッジ
ガーギッジ・ヒルスのラベルラベル左下の赤いチェッカー模様はクロアチアの国旗、右下の矢を咥えた馬はヒルス家の紋章
ガーギッジは、パリスの審判で1位になったワインの醸造技師として、一夜でカリフォルニアの英雄になります。いろんなワイナリーから、「ウチで醸造責任者になってほしい」とのオファーが来ましたが、全部断りました。
クロアチアからカリフォルニアに来て18年。53歳になった今、他人のためにワインを造りたくない、自分のワイナリーで自分のためにワインを造りたいとの強烈な想いがあり、モンテレーナとの5年契約が満了したら自分のワイナリーを立ち上げるつもりでした。契約終了が1976年です。
1976年の12月、ヒルス・コーヒーで有名なヒルス・ブラザーズと50:50の所有率で、新しいワイナリー、ガーギッジ・ヒルスを立ち上げ、ガーギッジはシャトー・モンテレーナを出ていきます。
別れは、どちらにも苦いものでした。
ガーギッジは、バレットが自分を正当に評価してくれなかったと周囲に漏らし「ロバート・モンダヴィの元を離れてモンテレーナに来た時、バレットと仲の良い友人でした。でも、モンテレーナを辞める時は、友人ではなく、友情のかけらも残っていません」と言っています。
一方、バレットも、ガーギッジが出て行くことに良い感情は持っていません。「パリスの審判」の名誉を引っ下げてモンテレーナを出ていこうとしていますし、モンテレーナに醸造技師がいなくなるのです。
その後のジム・バレット
ボー・バレット
シャトー・モンテレーナは、ガーギッジが抜けた後、ジム・バレットが自らワインを造りました。ワイナリー立ち上げのころに考えていた「カベルネ・ソーヴィニヨンによる世界レベルの赤ワイン」も造りました。
ガーギッジの一番弟子であり、息子のボー・バレット(1953年-)は、2013年にジムが他界した後もワインを造っています(ちなみに、ボー・バレットの奥さん、ハイジ・バレットは、カリフォルニアの「女性ワインメーカー四天王」の最高位にランクされる世界的な醸造家です)。
2013年に来日したボー・バレットにインタビューしたことがあります。お父さんのジムが亡くなった3週間後で、お悔やみを述べたところ、「父は、87歳まで生きたので、父の死は悲しい(sad)が、悲劇(tragedy)ではありません」とカラッとした表情で言われ、精神力の強さに驚きました。
お父さんとマイク・ガーギッジの確執を聞いたところ
父もマイクも、物凄くエゴが強かったと思います。ニューヨーク・ヤンキースの監督と、オーナーのような関係でしょう。2人とも、『オレがパリで勝ったんだ』と言い張っていました。
パリ試飲会の30周年記念あたりで、少しずつ2人は仲直りしたように思います。私はマイクと仲が良くて、私には最初の先生でしたし、マイクにも私は最初の生徒でした。2人には、それぞれに事情がありました。
私の父はチームプレイを重視し、マイクは個人プレイと技術に徹したということです。
と述べ、少しお父さんの考えに近いように思いました。
2008年7月23日、「ボルドーのトップシャトー、コス・デストゥルネルが、シャトー・モンテレーナを買収」との大ニュースが飛び込んできましたが、同年11月5日、買収の話は取り消しとなり、アメリカ中のワイン愛好家が胸を撫で下ろしました。
これからもシャトー・モンテレーナは「フランス・ワインを撃破した最初のカリフォルニアの生産者」として、栄光は語り継がれるでしょう。
シャトー・モンテレーナの銘柄