お店やネットショップでワインを購入するときに「PP98」や「WA98」という、評価に関する文字列を見掛けたことはありませんか?
「PP98」は「パーカーポイント 98点」を、「WA98」は「ワイン・アドヴォケイト 98点」を意味しており、どちらもワイン評論家であるロバート・パーカーが発行しているワイン雑誌『ワイン・アドヴォケイト』の誌上で評価した点数を意味しています。ロバート・パーカーは、既に引退しているため、主に「ワイン・アドヴォケイト ○点」と表記されることが多くなってきました。
ワインを飲み始めたらよく耳にするロバート・パーカーの名前。彼と、彼をワイン界の帝王に君臨させた『ワイン・アドヴォケイト』について今回はご紹介したいと思います。
ロバート・パーカーとは?
ロバート・パーカーは、その評価がワインの価格を変動させるほど強い影響力を持つワイン評論家です。
100点満点でワインを評価し、90年代半ばからはその評価がワインの価格を大きく左右するほどでした。
今までに飲んだワインの数は20万本以上。1978年に創刊した『ワイン・アドヴォケイト』は2012年に5万人の購読者を突破。一切の広告を掲載せず購読料のみで運営しているため、パーカーは公平な立場からワインを評価している消費者の強い味方であると公言していました。
ロバート・パーカーが『ワイン・アドヴォケイト』を創刊するまで
ロバート・パーカーことロバート・マクドウエル・パーカー・ジュニアは1947年、アメリカのメリーランド州モンクトンのボルティモアにて生を受けます。
ワインの銘醸地に生まれたわけではなく、食卓にワインが並ぶような家庭環境というわけでもありませんでしたが、農家を経て石油会社の副社長となった父は並外れた嗅覚を持ち合わせていたそうです。
22歳の頃、現在の妻であり、以前より交際していたパットことパトリシア・エッツェルに会うために初のヨーロッパ旅行を経験し、そこで素晴らしいワインの数々に出会います。帰国したパーカーは多くのワイン関連書籍を揃え、仲間たちとテイスティング会を結成。
1969年にパットと結婚し、新婚旅行ではワインを楽しむため、ヨーロッパに1カ月ほど滞在し、その後、パーカーは弁護士を目指し法科大学院に進学。パットはフランス語教師となり、その語学能力がパーカーとフランスを繋げる重要な橋渡しとなりました。
1970年には初のワイン産地への旅行を果たします。
ボルドーに足を運び、シャトー・ラスコンブなどを訪問。1973年にはボルティモアの信用金庫に勤める弁護士となり、両親からはその祝いとしてシャトー・ラフィット・ロートシルトが1ケースも送られたといいます。
そして、1970年代後半。
ワインのために多額の資金をつぎ込んでいたパーカーは、「破産することもなく妻に逃げられないため」に、テイスティング会メンバーで親友とも言えるヴィクトール・モルゲンロスとワイン雑誌(ニュースレター)を創刊するために動き始めます。
2人はワインを採点する様々な方法を思索。カリフォルニア大デイヴィス校醸造学部が採用している20点満点方法なども試しましたが、誰もが学生時代にこなすテストで採用されていた100点満点方式がわかりやすいという結論に達します。
しかし1977年、モルゲンロスは勤務先の食品医薬局から副業の許可が取れず、あえなく手を引くことになります。
パーカーは気落ちしましたが、母から2000ドルを借金し、さらにマッカーサー・リカーズのオーナーであるアディ・バッシンと、顧客を教育すると謳っていたワインクラブであるレザミ・デュ・ヴァンから顧客リストを提供してもらい『ボルディモア=ワシントン・ワイン・アドヴォケイト』の創刊にこぎつけたのでした。
当時の発行数は約6500部。1年の購読料は10ドルという破格で、1号ではあまり良くないとされた73年ヴィンテージのボルドーについて特集しました。
ワイン・アドヴォケイトが世界中で注目されるように
2号発刊後、パーカーは『ワシントンポスト』に取材されるという快挙を成し遂げ、さらに1981年にはワインコラムの連載を受け持つことになります。
多くのワインと向き合う中で一つの転機となったのは、82年ヴィンテージのボルドーでした。他のワイン評論家たちがあまり良い顔をしなかった中、「美しく熟成するだろう」と絶賛。結果的にそれは正しく、ワインへの公平な評価が生産者たちの注目も集めるようになりました。
この頃、ライバル的存在であったロバート・フィニガンと初の対面を果たし82年ヴィンテージについても語っていますが、頑として評価を変えなかったフィニガンは、このことによりその地位を失墜させることとなります。
名実ともにトップのワイン評論家となったパーカー。フィニガンの他にも、1976年に創刊し、1979年から投資銀行家のマーヴィン・シャンケンが率いる評価チームによって多くのワインの存在を伝える『ワイン・スペクテイター』が、現在に至るまでライバル的存在となっています。
1980年代には、イギリスのワイン専門家であるハリー・ウォーが事故で完全に嗅覚を失ってしまった事件をきっかけに、自身の鼻と舌に100万ドルの保険をかけます。10年後、保険を倍額にしてほしいと保険会社に頼みましたが、断られたといいます。
1994年には、パーカーとブルゴーニュの生産者に深い溝をつくる「フェヴレイ事件」が勃発。きっかけは1993年刊行の『パーカーのワイン・バイヤーズ・ガイド』に掲載された一文でした。
それまでパーカーが高評価を与えてきたフランソワ・フェヴレのワインについて、フランスで飲んだときと、それ以外の国で飲んだときでは味が違うと記載し、名誉毀損で訴えられます。
フェヴレイは、国内で流通するワインと輸出用のワインについてクオリティの違うものを選んでいると指摘されたと感じたのです。しかしパーカーはそのような意味で発言したわけではなく、言葉足らずが誤解を呼んでしまったのです。後に示談となったものの、内容的にはパーカーが敗訴したも同然のものでした。
キャリアに暗い影を落とす出来事がありながらも、1995年から1996年あたりからは、パーカーを中心とした市場システムと言っても過言ではないほど、評価の点数がワインの価格に反映されるようになります。
そして1999年、ワイン評論家としては初めてフランスから名誉あるレジオン・ドヌールを受勲。2004年にはイタリアからコメンダトーレを与えられました。どちらも、パーカーの活動が各国のワインに対して大きな功績となったことを授与の理由としています。
ワイン・アドヴォケイトの基準とは?
10点上昇すると、一流シャトーの場合は売上が600万ユーロから700万ユーロも違うというワイン・アドヴォケイト誌でのポイント。その基準は以下のようになっています。
・50点は参加点として全てのワインに与える。
・64点未満 「買うべきではない」
・60-64点 「明白な欠点を持つ」
・64-74点 「平均的」
・75-79点 「平均以上」
・80-89点 「秀逸」
・90-95点 「傑出」
・96-100点 「並外れている」
ワインの色や外見の評価、風味の複雑さ、後味の深さ、全体のレベルや将来的に熟成が進んだ際に素晴らしいワインになるのかどうかなどが点数化され、50点に細かく加算されていきます。
85点以上のワインとなると世間的には評価が非常に高く、その数は全体の1%に満たないと言われています。
まとめ
ワインの市場にもっとも影響力を持つロバート・パーカー。
かつて個人で活動していたパーカーも、現在では9人のレビュアーとともに世界中のワインを評価し続けています。
パーカーは10年も飲んでいないワインをブラインド・テイスティングでピタリとあてられるほど驚異的な記憶力と味覚、そして嗅覚の持ち主だといいます。その多大なる経験から選びぬかれた高得点のワインたちが必ずしも手に取る人の好みと一致するとは限りませんが、時代を象徴するワイン評論家が高評価を与えた1本であるという事実は、そのワインの魅力の一つかもしれません。
参考サイト Robert Parker.com https://www.robertparker.com/
参考文献 『ワインの帝王 ロバート・パーカー』エリン・マッコイ著 白水社