先日、地下鉄千代田線に乗っていると、根津駅から海外の観光客3人組が乗り込んできて、私の背中で立ち話を始めました。
「スゴイ数の鳥居(torii gate)だったな。でも、なぜ赤い色なんだろう?」朱に塗った根津神社の千本鳥居のことでしょうが、私も「なぜ、鳥居は赤いんだろう?」と思いました。
当たり前と思ってきたことの理由を知らないことが意外に少なくありません。
このようにワインにも「当たり前なのになぜ?」と思うことがあります。その一つに「なぜ、フランスがワイン大国になったのか?」ということです。
イタリアやスペイン、ドイツなどではなく、なぜフランスがワイン大国になったのでしょうか。色々と調べていく中でワイン大国になった主な理由が四つほど考えられるので、それぞれ見ていきましょう。
①もともと良いワインができた
ワインの入門書には上記のような「世界のワイン・ベルト」の絵が必ず載っていて、北緯30~50度、南緯20~40度で、平均気温が10~18度の地域に図のように色が塗ってあります。
このワイン・ベルトの国の中でも、特に超高品質の赤ワインが造られたのがフランスです。もともと良いワインができる環境だったことが、ワイン大国になった理由とも言えるのですが、それだけでは十分とは言えません。
世界中の美術愛好家の間で超人気のフェルメールは、作品数が極端に少なかったので、絵画好きの大金持ちがフェルメールの生活を丸ごと支えていました。作品数は3ダースもないにも関わらず、フェルメールは生活を営むことができました。
しかし、画商は作品数が少ないフェルメールだけでビジネスはやっていけません。
画商にとっては多作の画家が必要だったのですが、その典型がパブロ・ピカソです。ギネスブックにも載っている作品数として知られ、なんと生涯で147,800点も制作しました。これだけ作品数が多いと、ピカソだけで市場ができて、ビジネスも活発に動きます。
赤ワインも超高品質なワインだけでは不十分で、世界中に行き渡るほどの生産量が必要なのです。「シャトー・ムートン・ロスチャイルド 1982年」や「シャトー・マルゴー 1990年」、「シャトー・ラトゥール 2000年」など、ワイン界の帝王、ロバート・パーカー氏が100点を付けた赤ワインを数10万本も造ることができるのは、世界中でボルドーだけです。
質と量の両方を備えることは、ワイン業界では至難の業ですが、フランスの中でもボルドーは独断場なのです。
②ボルドーがイギリス領だった
1154年、フランスのギヨーム10世の長女でアキテーヌ地域圏公女のアリエノール・ダキテーヌが、イングランド王ヘンリー2世と結婚したことで、ボルドーを含むワインの大生産地、アキテーヌ地域圏は自動的にイギリス領となりました。
その後300年に渡り、イギリスとフランスの間ではボルドーを巡って戦争が繰り返され、1453年、タルボット将軍率いるイギリス軍がカスティヨン(ドルドーニュ川右岸のサンテミリオンの東)の戦いに敗れ、ボルドーはフランス領となりました。
それでもボルドーの人々はイギリスを愛しており、悲劇のタルボット将軍は「シャトー・タルボ」の由来となったのです。このように、ボルドーの人々は「頭はフランス、心はイギリス」との思いが強くありました。
また、当時、世界で最も豊かな国だったイギリスの美食を支えたのが、ボルドーの赤ワインでした。どんな業界でも、当時、イギリスで大人気になることは、世界でのトップを意味します。ボルドーとイギリスは「ワイン」と「気持ち」の両面で強く結びつきました。
③政府が強力にワインをバックアップした
第1回の万国博覧会(以下万博)が1851年にロンドンで開かれ、大評判となりました。「工業力のオリンピック」の雰囲気があり、主催国のイギリスは、全面ガラス張りの建物「クリスタル・パレス」を作って、他国を圧倒したそうです。
1855年に同大会の第3回がパリで開催。そこで、イギリスに勝てるものは何だろうと考えたのが「ワイン」です。既にフランスのワインは有名でしたが、海外の美食家からは、「どのワインが上質なのか分からない」と言われていました。
そこで、ナポレオン3世は「万博に訪れる観光客用に分かりやすい指標」を作る指示をボルドー商工会議所に命じました。それを受けた商工会議所は、ボルドーの多数のワインを熟知している仲買人組合に「五つの級に格付けせよ」と丸投げしたそうです。
本来なら、仲買人達が一堂に会し、ワインを試飲して格付けを決めるところですが、試飲する時間がなく、ワインは嗜好品のため「好き嫌い」に優劣をつけられません。仲買人達も、この格付けが160年後には、日本のワイン愛好家までが暗記するほどの権威と威力を持つとは想像できず、気楽に考えていたようです。
1樽、958リットルあたり3,000フラン以上が1級、2,700~2,500フランが2級、2,400~2,100フランが3級、1,700~2,000フランが4級、1,600~1,400フランを5級としたそうです。
1855年の制定当時、格付けシャトーは58シャトーでしたが、分裂したり吸収合併したりで、今は61シャトーになっています。
様々な経緯で決まった格付けですが、非常に重宝されており、中国で要人をもてなす場合、相手への敬意をワインで示すため1級シャトーのワインを振舞うそうです。
このようにシャトーの格付けを決めるなど、フランス政府は、昔から全力でワインの後押しをしたのです。
④ブドウの病害がきっかけでAOCを定めた
高級ワインで有名になったフランス(特にボルドー)ですが、実はこれまで2度、壊滅の危機がありました。
最初の試練は1852年の収穫直後に蔓延した「ウドンコ病」。30年後の1855年に1級シャトーとなる、シャトー・ラフィット、シャトー・ラトゥール、シャトー・マルゴー、シャトー・オー・ブリオンの「四大シャトー」の1852年度の生産量は30万本でしたが、翌1853年にはウドンコ病の影響で2万5000本まで急激に落ち込みました。
代わりのブドウとして見つけたのが、ウドンコ病にかかりにくいスペイン、リオハ地方の「テンプラニーリョ」です。
ボルドーの最重要品種、カベルネ・ソーヴィニヨン同様、力強く渋みもあり熟成にも耐えます。ただし、リオハ地方の伝統的な醸造技術では高品質な赤にはならないと判断し、ボルドーのシャトーは最新技術をリオハ地方に伝えたのです。これにより、スペインのワイン業界が急速に近代化されました。
最新技術で造ったリオハ地方のワインはバリック(小樽)に詰めてボルドーへ送り、クラレット(イギリスでのボルドー・ワインの呼び名)に「衣替え」してロンドンへ送りました。味や香りがよく似ていれば、本当の生産地は気にしなかったようです。
硫黄の溶液をブドウに噴霧することでウドンコ病を防げることがわかり、生産者はホッとしたのですが、直後に次の試練がやってきました。
ブドウの害虫のラスボス「フィロキセラ」です。1864年、ローヌ地方の畑で2年前にニューヨークから仕入れたブドウが枯れ始めます。これが、ヨーロッパにおける最初のフィロキセラ発症です。確実に感染が広がるフィロキセラでヨーロッパ中のブドウが壊滅状態になりました。パリでは、1855年以降で2回目となる1867年の万博(開催期間は210日)が大盛況。
連日、お祭り騒ぎでしたが、ボルドーではフィロキセラが猛威を振るい、それどころではなかったようです。当時、ボルドーはフィロキセラの病害が少なかったリオハのワインで生き延びたのです。
2回の病禍を乗り越えた「リオハ産のボルドー・ワイン」の悪癖が長く残り、有名産地の名前を詐称して低品質のワインを売るビジネスがはびこりました。アルジェリア産のワインにボルドーのラベルを貼ったこともあったそうです。
最も増えたのが1930年代で、1936年から1944年までボルドーで不作が続いたこと、1929年に始まった世界大恐慌が一向に収まりを見せなかったことで経済状況が悪化し、有名生産者の偽物ワインが大量に出回りました。
フランス政府は「フランス産ワイン=高級」とのイメージを守るために、1935年にワインの「原産地統制呼称制度(AOC)」を作りました。
この法律により、生産地区、ブドウの品種、アルコール度数、栽培法、醸造法、収穫量などを細かく決め、高品質ワインを保護したのです。
AOCは、生産地域の外にいる不心得者が偽ワインを作るのを防ぐだけでなく、生産者が伝統を守ることにも大きく寄与し、「フランス産ワイン=高級」というイメージを守ることができました。
まとめ
このようにイギリス、万国博覧会、フィロキセラ、リオハなど、いろんな要素が絡んで、フランスのワインが世界で認知され、ワイン大国へと成長していったことが分かります。
そんなフランスの歴史を紐解いていくと、更にいろんな発見があります。ワインの世界を知ることで、ワインの奥深さに酔いしれるのかもしれません。そんなことも少し思い出して、フランスのワインを飲むと、香りや味わいが少しリッチになるかもしれませんよ。