「ワイン史を変えた!「パリスの審判」とは?」では、1976年にパリのインターコンチネンタルホテルで開催されたワイン界の大事件、「パリスの審判」の背景と結果を解説しました。
「パリスの審判」は、カリフォルニアワインの勝利となりましたが、以降、40年以上に渡り、遺恨試合が続きます。今回のコラムでは、年代順に遺恨試合を追いながら、「パリスの審判」が世界のワイン界へ与えた影響を解説します。
前編では1986年のリターン・マッチについてをお伝えしました。今回は後編です。
前編はこちら!「パリスの審判」リターンマッチ【前編】
2006年の30周年記念テイスティング
1976年の「パリスの審判」は、1986年のリターンマッチだけでは終わりませんでした。
「パリスの審判」の30周年を記念し、30年前と全く同じ日時である5月24日に試飲会が開かれました。試飲の場所はロンドンとナパ。ヨーロッパとアメリカの2大陸を通信回線で結び、同時に同じワインをブラインドでテイスティングする大規模な試飲会です。(このことから、「クロス・コンチネンタル・テイスティング(大陸横断試飲)」とも呼びます)
ロンドンの試飲会場の審査員は以下の通りです。
・ジャンシス・ロビンソン
イギリス人のワイン評論家
・ヒュー・ジョンソン
イギリス人のワイン評論家
・マイケル・ブロードベント
イギリス人のワイン評論家
・ミシェル・ベタンヌ
フランス人のワイン評論家
・ミシェル・ドヴァーツ
フランス人のワイン評論家
など英仏の大物が9人揃いました。
ナパの試飲会場は以下の通りです。
・ダン・バーガー
アメリカ人のワイン評論家
・アンソニー・ダイアス・ブルー
アメリカ人のワイン評論家
・スティーヴン・ブルック
英国のワイン・ジャーナリスト
・クリスチャン・ヴァネケ
フランス人のワイン専門家 など
試飲会を仕切ったのは、ロンドン会場は、「ミスター・ブラインドテイスティング」のスティーヴン・スパリュア、ナパ会場は、オリジナルの「パリスの審判」の共同提案者であったパトリシア・ギャラガーでした。30年前の試飲会を忠実に再現しようとしたのです。
1976年「パリスの審判」での審査員9人にも声をかけましたが、出席したのは、ミシェル・ドヴァーツ(アカデミー・デュ・ヴァンの講師)とクリスチャン・ヴァネケ(当時、トゥール・ダルジャンのシェフ・ソムリエ)の2人だけでした。残りの7人は、30年経っても、「パリスの審判は自分の恥」と考えているのです。
ロマネ・コンティで有名なDRCは、ルロワ家とヴィレーヌ家の共同所有ですが、1976年当時、ルロワ家の当主だったアンリ(ラルー・ビーズ・ルロワの父)は、自分のワインがパリの試飲会に出ていないにも関わらず、「カリフォルニアを勝たせた」と審査員だったオーベール・ド・ヴィレーヌを罵倒し、以降、ルロワ家とヴィレーヌ家の関係がギクシャクしたそうです。
また、ムートンのフィリップ男爵は、1976年の試飲会での結果を知り、カリフォルニアに高得点をつけた審査員に電話をかけ、「私が30年かけてムートンを2級から1級へ昇格させたのに、あんたは『パリスの審判』でムートンを引きずり下ろした」と非難したとのこと。
ただし、フィリップ男爵は、カリフォルニアの素晴らしさと可能性を理解しており、ロバート・モンダヴィと共同で1978年に「オーパス・ワン」を設立したのは有名な話です。
両会場で試飲する赤ワインは、35年から37年の熟成をしていることになり、ボルドーに分があると思われましたが、結果は以下の通り、上位5位をカリフォルニアが独占して、圧勝となりました(赤字はカリフォルニア)。
試飲結果 |
1位 リッジ・モンテ・ベロ 1971年 |
2位 スタッグス・リープ・ワイン・セラーズ 1973年 |
3位 ハイツ・マーサズ・ヴィンヤード 1970年 |
4位 マヤカマス 1971年 |
5位 クロ・デュ・ヴァル 1972年 |
6位 ムートン・ロートシルト 1970年 |
7位 モンローズ 1970年 |
8位 オー・ブリオン 1970年 |
9位 レオヴィル・ラス・カーズ 1971年 |
10位 フリーマーク・アビー 1969年 |
1位になったリッジ・モンテ・ベロのオーナー、ポール・ドレイパーに後日、インタビューして聞いたところ、「1976年に5位になった時、何の宣伝効果もなかったが、30周年記念で1位になった時は、世界中から非常に大きい反響があった」と言っていました。
2017年の「最後の審判」
一応、30年記念試飲会で遺恨試合が治まったかに見えましたが、2017年5月13日、東京のアメリカンン・クラブで同じワインを集めた試飲会がありました。
「パリスの審判」から41年も経っているので、ワインの寿命や入手の困難さを考えると、これが「最後の審判」と言えます。
この試飲会は、ナパ・ヴァレー・ヴィントナーズの主催で、ワイン愛好家のジョセフ・クラフトが収集したワインを試飲しました。「パリスの審判」で1位になったスタグスリープ・ワインセラーズのワレン・ウィニアルスキーの臨席のもと、「パリスの審判」を再現しました。
審査員は以下の9人です(最初の「パリスの審判」の審査員が9人であったことにこだわっているようです)。
・ドン・ウィーバー
ハーラン・エステートのディレクター
・エディー・ゲルスマン
ワイン・ライブラリーとWHOAファームのオーナー
・アレキサンダー・ジャン
レ・ファソン・ダレクザンドレ社社長
・イヴ・リングラー
ル・テロワール・ワイン・ビストロ オーナー
・江田憲司
衆議院議員
・辻芳樹
辻調グループ代表
・村田恵子
ワイン王国社長
・徳岡邦夫
京都吉兆代表取締役総料理長
・谷宣英
ホテル・ニューオータニ エグゼクティブ・シェフ・ソムリエ、2011年の第6回全日本ソムリエコンクールで優勝
「最後の審判」の試飲風景。前列左から江田憲司氏、辻芳樹氏、谷宣英氏4列目の右端の白髪の男性がワレン・ウィニアルスキー氏
オリジナルの「パリスの審判」の時と同様、20点満点で採点した結果、順位は以下の通りで、またもカリフォルニアの勝利となりました。(赤字はカリフォルニアワイン)
試飲結果 |
1位 フリーマーク・アビー 1969年 |
2位 マヤカマス 1971年 |
3位 ムートン・ロートシルト 1970年 |
4位 リッジ・モンテ・ベロ 1971年 |
5位 モンローズ 1970年 |
6位 オー・ブリオン 1970年 |
7位 スタッグス・リープ・ワイン・セラーズ 1973年 |
8位 クロ・デュ・ヴァル 1972年 |
9位 ハイツ・マーサズ・ヴィンヤード 1970年 |
10位 レオヴィル・ラス・カーズ 1971年 |
「最後の審判」の1位、フリーマーク・アベイ1969年は、1976年のパリでは最下位でしたが、東京で雪辱を果たしました。
審査員は口々に「ワインが今でも生きていることに驚いた」と称賛し、「米仏の対決ではなく、ワイン自体の素晴らしさに感動した」と述べました。
ちなみに、私は、ジョージ・テイバー著の『パリスの審判』の翻訳者としてウィニアルスキーに紹介され、隣に座るように言われたばかりか、「お前も飲め」と、氏の前に並んだワインを飲むことができました。
私の印象では、マヤカマス1971年が頭一つ抜けていると思いました。
左からムートン1970年、リッジ・モンテ・ベロ1971年、オー・ブリオン1970年、ハイツ・マーサズ・ヴィンヤード1970年、スタッグス・リープ1973年
左からフリーマーク・アビー1969年、モンローズ1970年、マヤカマス1971年(1本がブショネで無念の2位…)、レオヴィル・ラスカーズ1971年、クロ・デュ・ヴァル1972年
ワインは2本ずつ合計20本準備されました。テイスティングが終わって、別室でボトルやコルクを撮影する時間があり、試飲もできました。両方のボトルを試飲した時、私には、マヤカマスの片方のボトルが少しブショネだったように感じました。
シカゴ大学で哲学を教えていたウィニアルスキー氏は、1964年、安定した生活を捨て、ポンコツ車に全家財道具と家族を乗せてナパを目指しました。
拙訳、『パリスの審判』の第11章は、「大学教授はギャンブルを好まないが、ウィニアルスキーはどう転ぶかわからないワイナリーに自分の将来を賭けた。同時に、カリフォルニアの将来もかかっていた」と結びました。
試飲会場で、ウィニアルスキー氏にワイナリーとギャンブルについて聞いたところ、「ギャンブルとは、情報がなく自分でコントロールできないことと言う。リスクは、自分が何をしているか分かっていて、自分で制御できる。私はリスクを取った。でも……」と言いよどみ、一瞬、遠くを見て、続けました。
「私はチャンスに恵まれた。シカゴからナパへ行く途中、カリフォルニアへ入ったところで車が故障したのも、『後戻りはできない。ナパでしっかり働け』との神のメッセージだった。モンダヴィ家で兄弟喧嘩が原因のお家騒動が起きて、ピーターとロバートのニ派に分かれた時、アンドレ・チェリチェフがロバートのワイナリーに私を売り込んでくれた。かねてから目をつけていた畑、『フェイ』の隣のプルーンの畑が売りに出たことも幸運だったし、バンク・オブ・アメリカが、ワイン産業の将来性を見込んで私のワイナリーの設立資本を貸してくれた。当時、大きな影響力を持っていたワイン評論家、ロバート・フィネガンが私のワインをスパリュアに推薦してくれた。『パリスの審判』では、ジャーナリストのジョージ・テイバーが、暇つぶしに参加してくれ、しかも、フランス語が分かって審査員のコメントまで聞き取って記事にしてくれたのも幸運だった」。
「最後の審判」で試飲するウィニアルスキー氏
私は、ウィニアルスキーと話せる貴重な機会なので、いろいろ聞かなければと思いました。世界中のいろいろなワイナリーで跡継ぎ問題が起きていて、ワイナリーと結婚は、スタートするより継続する方が難しいと言われます。
聞きにくいことを聞くのがワイン・ジャーナリストの使命。ウィニアルスキーがスタグス・リープを売却した理由を聞きました。「全ては『タイミング』の一言だ。10年間、考え、いろんな人に意見を聞いた。経済的な理由ではない。理由は言いたくない。売却する時が来たのだ。これも『チャンス』だ」。
寂しそうな表情でしたが、一転、笑顔になり、「スミソニアン博物館に『アメリカを変えた101の物』が陳列してあり、そこに、私の『スタグス・リープ1973年』のボトルがあることを誇らしく思う。ワインを好んだ米国の第3代大統領、トマス・ジェファーソンが『いつの日か、アメリカはワインを楽しむ国になるだろう』と言ったが、200年かけて、ワイン王国の一つになったことを嬉しく思う」と言いました。
新世界で高品質ワインが誕生する引き金となった試飲会はパリで始まりました。初代の勝者、ウィニアルスキーの眼前で、「最後の審判」として劇的なフィナーレを東京で飾ったのです。
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