シャンパーニュで最も偉大な女性、ヴーヴ・クリコ物語

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公開日 : 2019.4.1
更新日 : 2023.7.12
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イエローラベル

シャンパーニュには有名な3人の未亡人がいます。ボランジェポメリーヴーヴ・クリコを大手メゾンに急成長させた3人の女性です。

その中で、最も有名なのが、ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン社のマダム・クリコでしょう。今回は、未亡人となったマダム・クリコの“細うで繁盛記”を解説します。

目次

激動の時代

シャンパーニュの畑

シャンパーニュのメゾンとして超有名な「ヴーヴ・クリコ」は、クリコ家のフランソワ・クリコとポンサルダン家のバルブ・ニコル・ポンサルダンがのちに結婚し、現在の「ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン」となるメゾン。1772年にフランソワの父であるフィリップ・クリコがランス(注1)に設立した「クリコ」が前身です。

フィリップは実業家で、紡績業、銀行だけでなくシャンパーニュにブドウ畑を持っていました。シャンパーニュ・メゾンを立ち上げたフィリップは、他のメゾンが注目しなかったロシアを中心とした海外市場を積極的に開拓。これで業績を大きく伸ばしました。しかし急成長したといっても、立ち上げ当初の年産は4,000本から7,000本(600ケース)ほど。ヴーヴ・クリコの現在の年間平均出荷本数が900万本なので、1,500分の1ですね。

フィリップは、フランソワーズ・ムイロンと結婚し、会社の名前を「クリコ」から「クリコ・ムイロン」に替えます。これが、「ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン」の、クリコ家側の事情です。

(注1)エペルネとともに、シャンパーニュの2大都市です。フランス人でも、「Reims」を「ランス」と読めない人が少なくありません。日本人が、奈良の「斑鳩」を「いかるが」と読めない感じでしょうか。

一方、「ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン」の、ポンサルダン家側のお話。バルブ・ニコル・ポンサルダン(後に未亡人となる、マダム・クリコ)は1777年12月16日、ランスで生まれます。フランス革命が勃発する12年前。激動の時期だったことでしょう。

その頃の日本は、第十代将軍、徳川家治が世を治めていた平和な時代。1777年は、『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵は32歳で、火付盗賊改役に任命される10年前、精密な日本地図を制作した伊能忠敬も同じく32歳で、まだ地図の描き方を全く知らない頃でした。

ニコルの実父、二コラ・ポンサルダンは、大々的に紡績業を経営する一方、政治に深く関係し、ランスの市長を務めたこともあります。当初、政治的には貴族派に属していましたが、後に市民派へ宗旨替えします。この路線変更のおかげで、フランス革命でたくさんの王室関係者や貴族がギロチンにかけられた激動の時代に、裕福だったポンサルダン家は革命派から糾弾されることはなく、無事生き延びました。「時代の『風』を読んで大胆に行動する」ことは、ポンサルダン家のDNAに深く刻まれているようですね。

1798年、ニコルは21歳の時に、フィリップ・クリコの息子、フランソワと結婚します。ポンサルダン家もクリコ家も大規模な紡績業を営んでおり、この婚姻は、業界での勢力を伸ばすための政略結婚(注2)でした。1801年、義父フィリップ・クリコが引退して、跡を継いだ夫のフランソワは、家業の紡績業、銀行、シャンパーニュ・メゾンの全てを任されました。しかし、フランソワの熱意はシャンパーニュ造りに向かい、積極的にシャンパーニュの事業拡大を進めました。フランソワは、メゾンの名前を「クリコ・ムイロン・エ・フィス」に替えます。これは、「クリコ家・ムイロン家+息子」の意味で、ムイロン家はフランソワの母の姓、「息子」とはフランソワのことです。

フランソワは、シャンパーニュ・メゾンで初めて、「海外セールス部隊」を編成しました。特に、ヨーロッパの貴族社会でしっかり営業活動をします。「シャンパーニュは高貴な飲み物」とのイメージを固めたのは、フランソワの大きな功績です。中でも、ロシアの皇帝や貴族から熱烈な支持を受けました。

(注2)フランスは昔から階級社会の国で、結婚は同じ階級(職業)同士が一般的です。同じ業種で相手が見つからない場合、外国人と結婚します。ワイン作りは、日本の歌舞伎役者同様、フランスでも最も伝統的な職業ですが、ペトリュスの当主、クリスチャン・ムエックスや、DRCの共同オーナーのオーベール・ド・ヴィレーヌの配偶者はアメリカ人。日本人の感覚では、歌舞伎界の名門、音羽屋の尾上松也がハリウッド女優、スカーレット・ヨハンソンと結婚するような感じですね。

27歳の大決断

結婚の6年後の1805年、夫のフランソワ・クリコが10月23日に他界(自死とのことですが、表向きの死因は腸チフスでした)。享年31。

一人娘のクレマンティーヌはまだ6歳でした。ニコルと義父のフィリップ・クリコは、大きなショックを受けます。

1805年のブドウの出来が悲惨だったことや、皇帝になったナポレオンがヨーロッパ中で戦いを仕掛けて世の中が騒がしかったことから、義父のフィリップはシャンパーニュ・メゾンを清算し、廃業するつもりでした。マダム・クリコは、実家も嫁ぎ先も裕福で、娘と生きていくのに経済的な問題は何もありません。しかし、夫の葬式の数週間後、マダム・クリコは亡夫の遺志と情熱を継ぎ、シャンパーニュ造りのビジネスを続ける決心をします。彼女はまだ27歳でした。

男尊女卑で、男性が圧倒的に威張っていた1800年代のフランス。海外に製品を輸出するようなシャンパーニュ・メゾンを女性が経営するのはマダム・クリコが初めてでした。当時これは「無謀で、分不相応で、無分別で、無礼で、出過ぎた行為」です。

1814年の「大ギャンブル」

シャンパン

メゾンを継いだマダム・クリコは、1810年に社名を「ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン」に替えました。ヴーヴはフランス語で未亡人を指します。

この時代のヨーロッパは、あちこちで戦争が起きていて、海外セールス部隊の懸命の営業活動にも関わらず、贅沢品のシャンパーニュは売れません。マダム・クリコには、熱い気持ちはあるのですが、ヴーヴ・クリコ社の販売は、フランス市場ではなく、海外市場に大きく依存していたため、ビジネスは大苦戦となります。

最大の顧客がロシアでしたが、ナポレオンが港湾封鎖をしていたため船積みできず、さらに、ロシアのアレクサンドル皇帝がフランス製品を禁輸にしました。まさに踏んだり蹴ったりの状態。裕福な実父が融資をしてくれていますが、このままでは倒産は時間の問題です。

ナポレオンがエルバ島に島流しになり、ヨーロッパがまだまだ落ち着かない中、ロシアが対フランスの禁輸措置を緩和した1814年にクリコ未亡人は、5年越しで計画していた対ロシア輸出を強行します。失敗すれば一発で倒産です。マダム・クリコは秘かにオランダの輸送船をチャーターし、カリーニングラード(ポーランドとリトアニアの間にあるロシアの都市)へ10,550本、サンクトペテルブルクへ12,780本を出荷しました。

昔からヴーヴ・クリコの極甘のシャンパーニュは、甘党のロシアで大人気でした(ドサージュで加える砂糖は1リットルあたり150gで、現在の20倍)。船積みしたシャンパーニュは、陸揚げ、即完売になりました。

また、ロシアのアレクサンドル皇帝の末弟、ミハイル・パヴロヴィチ大公が、「余はヴーヴ・クリコしか飲まぬ」と公言したため、ヴーヴ・クリコ社は一転して、大人気・好景気になります。さらに、「コメット・イヤー」として世紀のヴィンテージとなった1811年も大好評。

かくして、ロシアでのヴーヴ・クリコ社の人気は決定的になったのです。ロシアへの出荷本数は急速に増え、1816年には43,000本、1821年には280,000本にもなりました。

1814年、危険を冒してロシアへ船で輸出したことが大転機となり、それを記念して、ヴーヴ・クリコ社のマークに「碇」が描いてある……との説をよく聞きますが、碇のマークは、実際には、ロシアへの輸出の前から使っていました。「安定と希望」のシンボルとして、昔から「碇」を採用していたのです。

豪胆な洒落男の実父、二コラ・ポンサルダン

ロシアへ決死の輸出をしたマダム・クリコは「大胆な決断力」の人ですね。彼女は、幼少期から、実父の二コラから非常に大きな影響を受けました。「的確に状況を判断して大胆な手を打つ」「気前がいい」という性格は父から正しく受け継いだものです。

1813年、二コラはナポレオンから男爵に任じられ、盾に紋章を描くことを許されます。さて、どんなデザインの紋章にしようかとニコラ男爵は考えました。普通なら、ライオンが鎧をまとい槍を持った勇猛な姿を描きそうですね。ところが、男爵自身がデザインした紋章は、以下の図のように「城壁と魚と橋」。なんとも風変わりな組み合わせの紋章です。なぜ、こんなデザインにしたのでしょうか?

紋章

実父、ポンサルダン男爵の紋章

まず、「城壁」には、「ランスの市長として、市民を守る」との心意気が込められています。気前が良く、男気に溢れていますね。

次に、一番下の橋ですが、三つのアーチは3人の子供を表しているそうです。それにしても、なぜ橋があるのでしょう?それ以上に、真ん中の魚の意味が不明ですね。

これは、橋(フランス語で「pont」)と鰯(sardine)で、合わせて「ポンダルダン(Ponsardin)」というダジャレ。名誉ある盾にダジャレの紋章を入れるところが大胆不敵な洒落男ですね。

日本なら、北本与左衛門という武士が殿様から家紋を許されたとして、浴衣の袂(たもと)に木の枝を入れた図柄を選び、「木と袂で、『き・たもと』でござる」という感じでしょうか。

マダム・クリコの「大胆にして自信に満ちた決断」は、こんな実父のニコラから受け継いだのですね。

ヴーヴ・クリコ社では、この紋章の逸話を一段階パワーアップして、四角い「オイルサーディン缶」モデルを発売しています。缶の裏には、この「城壁と橋と鰯」の紋章と由来話が載っています。この「缶入りシャンパーニュ」は、ヴーヴ・クリコの愛好家にとって面白いプレゼントになりそうですね。

パッケージ

オイルサーディン風のパッケージ

30代、40代は発明家

ビジネスの才覚だけでなく、シャンパーニュ製造の技術革新でも、マダム・クリコは大きく貢献しました。特に、30代、40代には画期的なアイデアを連発します。

まず、初めてヴィンテージ・シャンパーニュを作ったのが、マダム・クリコです。記念すべき「初ヴィンテージ」は1810年で、彼女が33歳の時でした。

シャンパーニュの製造過程で、二次発酵させてから、穴が開いた動瓶台にボトルを逆さまに入れ、動瓶(ルミュアージュ)をして澱をボトルのネック部に集めます。逆さまのままコルクを抜き、ネックに溜まった澱を吹き飛ばして透明度の高いシャンパーニュを造るのですが、この動瓶台を発明し、澱を取り除くプロセスを考えたのもマダム・クリコ。これは1816年のことで、彼女は39歳でした。現在、透明なシャンパーニュが飲めるのは、マダム・クリコのおかげです。

赤ワインをブレンドしてロゼ・シャンパーニュを作ったのも、ヴーヴ・クリコが最初でした。当時のロゼは、エルダーベリーというブルーベリーに似たフルーツから紫色のジュースを搾り、白シャンパーニュに混ぜていました。マダム・クリコは、ブージー村(後にグラン・クリュとなります)のピノ・ノワールをブレンドして、初めて、ブドウだけでロゼ・シャンパーニュを造りました。マダム・クリコが41歳の1818年のこと。このロゼが、有名な「ローズ・ラベル」です。

クリコ・イエローの誕生秘話

1841年、マダム・クリコは64歳でシャンパーニュ造りから引退します。

シャンパーニュ事業を継いだのは娘のクレマンティーヌではなく、血縁関係のない同社社員のエドゥアール・ヴェルレでした。ヴェルレは、1801年生まれで、1821年からヴーヴ・クリコ社に勤務します。ヴェルレは、早くに両親を亡くした苦労人で、謹厳実直。同社で一生懸命に働きました。ビジネスの才覚があり、人を見抜く目があったマダム・クリコは、献身的な努力で会社を急成長させたヴェルレを後継者に指名します。マダム・クリコは64歳で引退しヴーヴ・クリコ社をヴェルレに任せ、1866年7月29日、89歳で逝去しました。シャンパーニュ・メゾンの経営権以外の土地、建物、銀行業、紡績業関連の財産は、娘のクレマンティーヌが相続します。

メゾンの跡を継いだヴェルレは、ロシアだけでなく、イギリスやアメリカに市場を拡大します。ロシア人と違い英国人やアメリカ人は、極甘口のシャンパーニュを好みません。そこで、「辛口」であることが分かるように、イエロー・ラベルを作ったそうです。

ヴーヴ・クリコのこの有名な黄色、通称「クリコ・イエロー」は、一説によると目玉焼きに由来するそうです。ヴェルレは朝食の目玉焼きの黄身を見て、「この色だ」と思いました。当時の鶏は庭で放し飼いにし、虫やミミズを食べていました。今でいう「オーガニック飼育」で、黄身の色が濃厚でした。

当初、「クリコ・イエロー」のラベルは、辛口と分かるように貼っていましたが、非常に目立って印象に残ること、また、世界の嗜好が辛口になったことから、この黄色をトレードマークとして使うようになりました。初めて使ったのは1876年。クリコ未亡人の生誕100周年となる翌1877年に、この黄色を商標登録します(色見本の大手、パントン社の色番号でいうと「137C」)。ランスにある同社の巨大なショップへ行くと、並んでいるお土産グッズは、傘から自転車まで、全てこの黄色。なんとも壮観で、クリコ愛好家にはたまりません。

「クリコ・イエロー」の商標登録から135年後の2012年、東京の地下鉄銀座線に新車両1000系が、運航を開始しました。私が初めてこの車両を見た時、「おぉ、ヴーヴ・クリコが銀座線と提携した」と本気でびっくりしました。両方とも色がよく似ていますが、クリコ・イエローは赤緑青の割合が「255:163:0」。一方、銀座線の黄色は「255:151:0」。銀座線の方が、緑が12少ない色指定になっています。微妙に違いますが、銀座線に乗るたびにヴーヴ・クリコを連想し、贅沢な気分になります。

銀座線

銀座線の車両も同じイエロー?

ビジネス・ウーマンを応援

女性がビジネスをすることがあり得ない時代に、大胆な決断で大成功したクリコ未亡人。ビジネス・ウーマンの先駆けとなりました。シャンパーニュでは、クリコ未亡人は、「偉大な女性(ラ・グランド・ダム)」と呼ばれています。その名前をつけたシャンパーニュが、同社のプレスティージ・シャンパーニュ(注3)です。

(注3)看板となる最高峰の製品

ヴーヴ・クリコ社では、「ヴーヴ・クリコ・ビジネスウーマン・アワード」と「ニュー・ジェネレーション・アワード」の二つの賞を設け、働く女性を応援しています。

「ヴーヴ・クリコ・ビジネスウーマン・アワード」は、1972年に創立。この年は、メゾンが「クリコ」として立ち上がった200年記念の年であり、ラ・グランド・ダムの最初の年でもあります。このアワードは女性の起業家や企業家が対象です。これまで、27ヵ国、350以上が受賞しています。

日本人女性の受賞者も多く、1991年から2006年まで、ほぼ毎年、受賞しましたが、それ以降、11年間に渡り、日本人の受賞者はおらず、空白の時代が続きました。しかし、2017年に初めて日本で受賞記念式典を開催し、翌2018年も日本で開催。2年連続で行われた日本での授賞式では、ニュースキャスターの雨宮塔子さんなど、4人の日本人女性が受賞しました。

仕事がバキバキにできるスタイリッシュな4人の美女が、昼下がりのテラスでランチを食べるとき、テーブルの真ん中に置いて絵になるのはヴーヴ・クリコしかないでしょう。鮮やかなイエロー・ボトルから桃の香りが漂いますね。スタイリッシュで凄腕のビジネス・ウーマン御用達がヴーヴ・クリコのシャンパーニュ。頑張っている女性がいたら、クリコ未亡人の逸話とともにイエロー・ラベルをプレゼントすると、物凄く喜ばれると思います。



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