作家・料理家。服部栄養専門学校卒業後、料理教室勤務や出張料理人などを経て、2005年『さよならアメリカ』で群像新人文学賞を受賞し、作家デビュー。作家として作品を発表する一方、料理家としても活動し、メニュー開発なども手がける。 主な著書 『スープの国のお姫様』(小学館) 『おいしいものには理由がある』(角川書店) 『最高のおにぎりの作り方』(KADOKAWA) 『ぼくのおいしいは3でつくる』(辰巳出版)
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この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
あ、と隣の席に出されたワインを見て、客の一人が声をあげた。年の頃は三十代といったところ。髪はきっちりとセットされ、仕立てのいい背広を着込んでいる。
「どうされましたか」
マスターが尋ねると、彼は「なんでもないです」と首を横に振った。それからしばらく時が過ぎ、他の客は帰り、後には二人だけが残った。
「すみません……さっきのお客さんが飲まれていたお酒ってなんですか?」
「アルゼンチンのロゼワインです。品種はマルベック。アルゼンチン、マルベックと聞くと肉に合わせる赤ワインのイメージがありますが、ロゼは気軽に飲める感じです。どんな料理とも相性が良いですが、同じ色のスモークサーモンなども合いそうです」
「スモークサーモンってどんな風に食べていいかイマイチわからないんですよ」
「そのままでももちろんおいしいですが、燻製してますからベーコンと同じように卵と合わせるのもおすすめですよ。スクランブルエッグに入れる、とかね」
「なるほど。春らしい料理だ」と彼は感心する。「そうだ。桜の花のお酒って聞いたことありますか?」
「桜?」とマスターは首をかしげる。「桜のリキュールですか」
「それが違うんです。桜の花を瓶に詰めて、特殊な方法で液体にするらしいんです。僕は一度だけ飲んだことがあります。そのロゼワインと色がよく似ていたので、さっき思わず声に出てしまって……」
彼は十年ほど前、友だちに誘われて起業したが、上手く進まなかったという昔話をはじめる。二月に会社を畳み、借金だけが残ったという。
「若かったんです。なにもわかってなかった。会社を畳んで時間だけはあったので、ひたすら体を動かしていました。近所の川べりを走るんです。お金もかからないし、走っているあいだは悩まなくて済むから。三月の終わりに近づくと、桜が咲きはじめます。僕、若い頃は花見が好きじゃなかった。花なんてそこらへんに咲いているし、桜だの紅葉だの見て面白いものじゃない、と思っていました。四月になって、桜が満開になるとひどく物悲しい気分になりました。世間の人は明るく過ごしているのに、僕だけが取り残されている。そんなときです。花を集めている人と出会ったのは」
「花を集める?」
「はい」彼は頷いて、一呼吸置いた。「早朝のまだ誰もいない時間でした。ハンチング帽を被った老人がベンチに座って、古めかしい瓶を大事そうに抱えていました。こちらには気がついていません。風が吹いて、桜の花びらが散り、次の瞬間、一箇所に集まって、瓶のなかに吸い込まれていったんです」
マスターはグラスを拭く手を止める。どんな風に反応したらいいかわからない。
「僕は思わずベンチの前に立ち止まり、瓶を覗き込みました。老人は僕の存在に気がつくと気まずそうに瓶を手元に置いたバッグにしまいました」
なにが起きたんですか?と尋ねると老人は桜の花でお酒をつくる、と教えてくれた。集めた花びらを液体に変え、長いこと寝かせると酒になる、という話だった。
去年のお酒がありますけれど、少し味を見ますか。老人はいたずらっぽく微笑み、カバンから小瓶を取り出した。彼が小瓶を受け取るとふらりと立ち去った。
狐につままれたような気持ちで彼は瓶から直接、もらった酒を口に含んだ。少しだけ甘く、酸っぱく、切ない味がして、ふと懐かしい思い出が蘇った。子どもの頃の入学式の風景、次は仲間たちと握手をして別れた高校の卒業式……。
「次々と出会いと別れの風景が思い出されるんです。あれは不思議な経験でした。今は借金も返したし、新しい家族もできましたし、花見が好きになりました。好きじゃなかったのは過ぎ去ること、花が散ることが怖かったんです。でも、今はそんなに嫌じゃない。大人になったってことですかね」
スモークサーモンとスクランブルエッグ
【材料】 (2人分)
・スモークサーモン 40g
・卵 2個
・牛乳 大さじ1
・塩 少々
・サラダ油 大さじ1/2
・ブロッコリースプラウト 適量
・パセリ(みじん切り) 適量
【作り方】
1. 卵に牛乳、塩を加えよく溶く。フライパンにサラダ油をひき、弱火にかけ卵液を加え混ぜながらじっくりと半熟状になるまで火を通す。
2.器に盛り付け、スモークサーモン、スプラウトを添え、パセリを振る。
文・写真=樋口 直哉
今回ストーリーに登場したワインは…
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